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感謝も称賛もなく、ひとは優しくあり続けられるのか

女が好きな音楽は男の影響である。

という説があるけれど、まあ好きなひとが好きなものを共有したいのは当然だと思う。何の話かというと、中学生のころ好きだった男の子が「ねらー」だったので、わたしも13歳から匿名掲示板を覗いていたという話。最近はときどき流れてくるまとめサイトに目を通すくらいだけど。
それで少し前、育児版だったかなあ。要約するとこんな相談を読んだ。

娘は保育園に通っている。春、年少さんが入園してきてうれしかったのだろう、よく小さい子のお世話をした。先生や保護者はその姿を褒める。すると次第に、お世話をしながらチラチラと大人をうかがう「褒められ待ち」の子になってしまった。

これを見て考えてしまった。「優しい」ってむずかしい。そもそも優しさってなんだろう。相手に譲ること? 会ったことのない誰かの痛みにも寄り添えること? 子育て本にも「優しい子になってほしい」という願いを反映したものは多く存在するけれど、いったい、どういう子になることを世の親は望んでいるんだろう?

私は、この子の気持ちがわかるよ。「いい子ね」「優しいね」「すごいね」と親に言われたくてがんばることってあるじゃん。それっていけないことなんだろうか。いいことをすると、褒められてしまう。その経験を重ねて、ナチュラルボーンな優しさを失わずにいるってむずかしいんじゃないの? 感謝も称賛もなく、人は優しくいられるのだろうか?

* * *

小学生のころ、自分の誕生日には家族を外食につれていく子だった。貯めていたお年玉を握り(親戚が多いこともあり結構な額をもらっていた)、近所の焼き鳥屋に行く。

「誕生日は、生んでくれたことに感謝しなきゃいけない日だからね」

そう言うと、「うれしいよ」「ユウコは優しいね」と言われる。うれしかった。「そんなこと、お母さんが子どものころは考えたこともなかったよ」と言われる。誇らしかった。

いま振り返ると浅はかに思えるのだけど、当時は褒められたいというか、「優しい子に育ったこと」を喜んでほしかったような気がする。いい子に育ってよかったでしょ、お母さん嬉しいでしょって。
あと、次女として、当時めっためたに仲が悪かった姉よりもなにかオプション性というか存在感を出さないと愛されないのでは、みたいな思いもあったのは覚えている。姉はとても優秀だったのでね。

でも、心の底から優しいわけじゃない私は、年齢とともに上げてしまった店のランク(自業自得だ)とその金額を負担に思うようになった。思春期になるとだんだん欲しいものも増えていくし、「7月14日はそうすることが当たり前」になっているのに小さな不満を覚えるようになった。

昔の、まだまだ未熟な自分を悪く捉えすぎかもしれない。けど、自分の提供する優しさに対する感謝と称賛が釣り合わなくなったとき、優しさを惜しみ始めたのだ。

ああ嫌だなあ、娘がそんなふうに気を遣ったり、愛されるためとか褒めらるために「優しいフリ」をしたら。優しいフリをした自分を後ろめたく思う人生を送るのは。いいんだよそんなことしなくも大好きだよすばらしいよって、胸がぎゅっとなる。

でも、自分に関して言えば仕方なかったのかなともどこかで諦めも感じる。褒められたいも、感謝されたいも、大人のモチベーションにもなりうる根源的な欲求だから。それが剥き身なんだよね、子どもは。

自分を慰めたくて、どこかに本当に優しかった思い出はないかな、と記憶を探した。

あった。たぶん幼稚園くらい。姉と、大好きなおばあちゃんと、電車で1時間ほどの町にある従兄弟の家に行ったとき。おばあちゃんを真ん中に、姉と私はそれぞれ手をつなぐ。従兄弟の家が見えて、姉は手を振りほどき、「わーい!」と走り出した。

でも、私はおばあちゃんの手を離さなかった。従兄弟とは会いたかったけど、おばあちゃんは足が悪いから。私まで手を振りほどいたら、おばあちゃんが寂しいはずだから。おばあちゃんの荷物を持って、おばあちゃんの手を握り続けていた。握ってもらってたのに、握ってあげていた。一丁前に、自分が支えているつもりになっていた。それをおばあちゃんは感じていたみたいで、ずーっと後になって「あのとき、ユウコは優しい子だと思った」と母に言っていたらしい。その場で褒められたわけでも感謝されたわけでもないから、あれは純粋に優しさだったと言っていいと思う。

そうそう、布団で川の字になって寝るとき、「お尻を向けたらプイッとしてるみたいで傷つくんじゃないか、可哀想だなあ」って親に背中を向けて眠れなかったなあ。たぶんあれも優しさだった、と思う。

もう、ここまで純粋な優しさは持てないんだろうか。わからない。自分が気づいていないところで誰かに優しくできているのかもしれないし、まったく冷徹なのかもしれない。

ただ、もしもう純粋な優しさを失っているとしても、誕生日にご馳走していた私みたいに、意志の力があれば優しさは発揮できる。浅はかでもいい。打算であっても、自己満足であっても。

優しくなれない自分に後ろめたくなるより、自覚的に優しいフリをして優しくあったほうがずっといい。よね?

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