見出し画像

シビアで愛情深い「編集者的な存在」について

三日坊主だけど再開する力もあると自負している。禁煙に何回も成功するタイプかもしれない。

ということで、いつぶりだろう? 前の投稿の日付けを見ずに書き始めたけれど、ちょうご無沙汰のnote、またボチボチと書いていこうと思います。

*  *  *

noteを書いていないあいだ、本の原稿を書いたりウェブのインタビュー原稿を書いたりと、いつもどおり唸りながら過ごしていた。ただその中で、自分のなかで「いつもと違う系」の仕事もいくつかあった。

たとえばsuumoタウンのエッセイとか、

料理人、田村浩二さんのnote自己紹介文。

両方とも楽しい仕事だった。こういう自分の活かし方もあるんだなと引き出しが増えたし、いつもと違う脳みその働きによってつかんだ手応えもあった。

そして最近はさらに、ひさしぶりにザ・編集者としての案件も動きはじめようとしている。はて、自分はいったいどこに進むんだろう。

……と、ここ数ヶ月キャリアについて考える機会も多かったわけだけど、その中でじーっくり書き進めていた本の原稿を、つい先日書き終わった。著者は高齢の、すてきな保育士さんの本。かたちになるのが楽しみだ。

さて、この原稿を読んでくれたバトンズ社長の古賀さんが、しみじみとこう言っていた。「田中さんは雰囲気とかキャリアは『ビジネス書ど真ん中』だけど、ライターとして得意なジャンルは案外わからないね」。学者さんの原稿がよかったりするし、こういうおばあちゃんの原稿がおもしろかったりするし、と。

そして古賀さんはいくつか「いい原稿」になる要素を挙げてくれたけれど(割愛)、

「まあ、なにが得意かは人が教えてくれるから。決めつけずにいろいろやってみるといいよ」

と言った。


「自分の得意は、周りの人が教えてくれる」

これは古賀さんが『40歳の教科書』をつくるとき、漫画家の西原理恵子さんからうかがった言葉だそうだ。

彼女はキャリアのはじめ、食っていくために参入ハードルが低いエロ本の門戸を叩いた。そして、自分に来た仕事はどんなジャンルでも一切断らず、すべて引き受けた。それらに優劣をつけず、必死に取り組んだ。だって目的は「食っていくため」なのだから。

でも、わかりやすく、「コレジャナイ仕事」からは二度と声がかからなかった。彼女の場合はファッションや教育系。

一方で、特定のジャンルからは「こんな企画やってみない?」と提案されることが増えていった。それがいまの、西原理恵子の仕事につながっている。

だから仕事は、声がかかったらとにかくやる。挑戦してみる。失敗したっていい、それは「向いていないだけ」だから——。

なるほどなあ、と思った。「これができる」「これがしたい」を先に考えすぎず、「これをしてよ」に全力で応じつづける。そうすれば自然と得意でよろこばれる仕事に集約されていく、というのはとても納得感がある。

自分が考える「得意」には、願望や野心が混入していることがままある。あるいは純粋に、自分を客観視できていないことも多々ある。でも、自分はよく見えていなくても、周りの人からするとくっきりと「得意オーラ」みたいなものが見えたりするものだ。

西原さんにとっての「周りの人」は雑誌・書籍の編集者だったわけだけど、編集者(的な存在)はシビアで、同時にとても愛情深い。

明らかに向いていない仕事に再オーダーはないし、向いている仕事には「ぜひあなたにこれをやってみてほしくて!」「こんなの興味ない?」とどんどん道をつくってくれる。そして「こうしたらもっといいよ」と育ててくれる。

編集者とはオーラに惹きつけられる人、解像度高くオーラを見ることのできる人、と言えるのかもしれない。きっとどんな分野の仕事でも、「編集者的な人」はいるんじゃないかな。

ちなみにわたしもモノを書く友だちに「いやそっちじゃなくない!?」「こんなの書いてみてよ!」と熱く勧めることがあるし、なぜかキャリア相談を受けることも多い。これは編集者としての自分の力、なんだろう。

「これ、田中さんとぜひやりたくて!」

そう言ってくれる人たちの「見る目」を信じよう、乗っかりまっせと他力本願な気持ちになりつつ、自分も相手をどこかへ連れていってあげられる、シビアで愛情深い存在——「編集者的な存在」でもありたいと思った。

サポートありがとうございます。いただいたサポートは、よいよいコンテンツをつくるため人間を磨くなにかに使わせていただきます……!