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「言葉にしない」も武器になる

去年のいまごろ、「インプットしたことを言語化しない」と決め、しばらく実践していた。
映画を観るとき。絵画を鑑賞するとき。音楽を聴くとき。
いずれもただ、「好き」「よい〜」「フィットしないなあ」といった感覚に委ねきる。わかったようなこと、こむずかしいこと、評論家のようなことを考えず、ただ没頭する。

言葉を仕事にしているくせに? 
でも、そういう仕事だからこそ、だれかに伝えること、つまり「再構成」を想定した思考に偏っていく自覚があった。
自分の中で「言葉の範囲でしか感じられない問題」みたいなものにぶちあたり、「Don' t think,feel」をちゃんと経験してみよう、と思ったのである。

するとどうなったか。
シンプルに、なにかと出会うことがさらに楽しくなった!

たとえば美術館でいえば、ふらりと足を運び、歴史的に重要らしくてもピンとこない作品の前では歩みを止めず、惹かれるものだけじーっと見る。ただ見る。
はじめはつい解説文を読んで「理解」しようとしてしまったりもしたけれど、慣れてくると、ごちゃごちゃ考えながら対峙するときよりビビッとくることがぐんと増えた。
映画も舞台も同じ。「よくわからないけどいい!」 って、いいのだ。

一般的には、自分の感情や「どうしてそう思ったか」は掘り下げ、言語化することが大切だと言われる。思考も理解も深まるし、人に伝えることもできる、と。

それはもちろんそのとおりだけど、あえて掘り下げずにいたほうがいいときだってある、とわたしは思う。感動の対象が自分のキャパシティを上回るときにむりやり表現しようとすると、借りものの言葉で取り繕うことになってしまう。それはあまり気持ちよくないし、なにも深まっていない。

とはいえ、「わからない」のまま処理して満足するのも、もったいない。
だから、「よくわからない」に出会ったら、それを処理するでもなく捨てるでもなく、「持っておく」のがちょうどいいと思う。いつか言葉にできるかな、と期待しながら保留ボックスに放り込んでおく。

そういうスタンスでいると、「言葉にできるもの」と出会ったとき、より誠実に、納得のいく言葉にできるんじゃないかなあ。

なにより、「感動を感動のまま受け止める余白」がないと、表現ありき、人の目ありきの頭でっかちなエセ感動ばかりが自分に満ちていく気がして。それはいやだな、と思うのです。


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