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名前をつけると安心できる

note、ひさしぶりに書く。

というのも先週、回腸末端炎・大腸炎なるものに襲われ、週の後半をひたすらベッドの上で唸って過ごしていたのだ。

陣痛のように断続的に発生する痛みには息もできなかったけれど、症状は「激痛だけ」。トイレから出られないとか、マーライオンになるとか、そういう液体に関する憂き目には遭わずに済んだ。

しかし、だからこそちょっと怖かった。だって明らかに「ときどき起こる腹下し」ではなかったから。

ああ食べものにあたったんだな、冷たいもの食べ過ぎちゃったな、と参照する経験がない。はじめての痛みのパターンに、内臓に深刻な問題があるんじゃないか、娘まだちいさいのにと心配になる。

そしてかかりつけの病院でCTを撮り(まっすぐ横になるのも苦痛だった!)、晴れて冒頭の病名がついたわけだけども。

——この瞬間、ものすごく安心した! 「薬を飲めばいつか治る」とわかっただけで、腹痛が少しだけマシになった気すらした。


名前とは、正体だ。だから名前は、人を安心させる。

たとえば、「病名をもらえるまで病院をハシゴするおじいちゃん」。

ときどき非難される存在だけれど、気持ちはわかる。なんとなくスッキリしない、不調だ、じんわり痛い……そういった(加齢由来の)症状に「○○炎」「○○症」などの名前がつかないと——正体がわからないと、不安なのだ。自分にとっては非常事態だから、「80歳ならそんなものですよ」では納得も安心もできない。救いにならない。

小島慶子さんも「大人になって自分がADHDだとわかり、ようやくダメ人間じゃないと思えた。肩の荷が下りた」といったことを書かれていた。彼女もまた、名前によって救われた人なのだろう。名前がない間は漠然と自己肯定感を削って生きていたと思うと、胸がぎゅっとなる。


そして、もしかしたら「漠然とした感覚」も名前がつくことでホッと救われることがあるのかもしれないと思った。

たとえば、なんとなく嫌いな人に対して「常識がない」「センスがない」「媚びてる」「こんな母親にはなりたくない」などなど、言葉を尽くして理由を述べ、正当化しようとする人は少なくない。わかりやすいところでは、炎上しやすい芸能人のインスタのコメ欄はこんなんばっかりだ。

彼らはおそらく自分の感覚、感情に名前をつけられていない。正しい理由があって石を投げていると思っている。

……でもね、わかるのだ。じつはわたしも学生時代、一時期なぜか素直に「すごい」と言えない友達がいた。みんなが絶賛するなか、「別にうらやましくないよ」みたいなスタンスを取っていた。石こそ投げていなかったけど、そのときはコメ欄の民と似たような気持ちだったと思う。

週末、ベッドの中でゴロゴロしていると、あのときのモヤモヤをふと思い出した。そして、自然に名前をつけられた。「嫉妬」だ。そのとき、なんだかとても清々しい気持ちになって。正体がわかってホッとしたのだ。

あのときモヤモヤしていたけど、嫉妬してたから認めたくなかったんだよねって。でも当時はその感情を直視できなかったんだよねって。コメ欄に生息し、嫌みをまき散らす彼らも、いつかそれぞれ自分の漠然とした感覚に(もちろん嫉妬とは限らないけど)名前を与えられたらいいなと思う。


名前がわかると安心できる。
正体がわかって、輪郭が見える。

病気に関してはお医者さんしかつけられないけれど、自分の感覚や感情、心の変化には、自分しか名前をつけられない。機微、みたいなものをもっとていねいに観察していきたい。


床に伏せながら、そんなことを考えたのでした。

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