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子育てのときも、自分のことだけ考えて過ごしたい

以前わたしは、娘には自己肯定感の高い子に育ってほしいなあ(どうしたらいいのかわからんけど)というnoteを書いた。このほかにも「こんな人間になるといいな」という人物像のようなものが、いくつかある。

「チャーミングさがあるといいよね」
「想像力があるとよし」
「どこでも活きていける図太さがあると強い」

などなど。でも、この要素たちを並べて眺めてみると、なんともぼんやりした願望だなあと呆れてしまう。そりゃそうなるといいけどさあ、と。

実際「こんなひとになるといいな〜」を突き詰めると聖人君子になっていくというか、思春期男子の「理想のお嫁さん」みたいなファンタジーさが滲み出てくる。最終的に、「そんな思いどおりになるはずないし、考えても無駄なのでは……」という投げやりな気持ちにもなってくる。チャーミングなひとに育てる方法なんて、想像もつかない。

ただ、「子どもへの願望」にはもうひとつ、「こうはならないでほしい」という切り口もある。そして不思議なほど、「こうなってほしい」より「こうはならないでほしい」のほうがずっと具体的に想像できるのだ。ニュースを見たり人と話をしたり、SNS世界で活動したりして「なんだか嫌だなあ」と思うたびに、その輪郭が明確になっていく。

たとえば、ごく最近描いた「逆理想像」はこんな感じ。

「芸能人にクソリプを送り炎上に加担するひとにはなってほしくない」
「メリットがあるひとには誠実に対応して、そうでもないひとは適当にあしらうひとにはなってほしくない」
「自分を高めようとせず、ひとの足を引っ張るために悪口を撒き散らすひとにはなってほしくない」

……まあ、いろいろ目にしたり耳にしたりするなかで、「うげ」と感じることがあったのだ。

このように「ダメ」「イヤ」は具体的に想像できるし、実感を持てるし、なによりひとにも伝えやすい。子どもに「想像力を持とうね」と言ってもいまいち伝わる気がしないけれど、「○○ちゃんは先生に気に入られててズルい」と訴える娘には対話のしようがあると思う。

「ダメ」や「イヤ」は鮮やかで、的確で、便利なのだ。

……うん。でも、子どもに対する「こうなってほしい」という希望の旗も、「こうはなってほしくない」という失望の目安も、じつは「自分」な気がする。

自分がどうありたいかとか、自分はどうありたくないかとか。
どう生きたいかとか、どんな仕事をしたいとか。

あれ。これが「子どもを使って生き直しをする」ってことなのかなあ? それはマズイしよくないなあ。子どもは自分の分身じゃないからなあ。

だから、毒親にならないためにも、子どものことを考えるタイミングを自分のためのチャンスにしなきゃなと思う。

「こんなひとに育ってほしい」と思ったら、「わたしはこんなひとになりたい」と希望に変えて。
「こんなひとには育ってほしくない」と思ったら、「わたしはこんなひとになりたくない」と戒めに変えて。

けっこう語弊があるかもしれないけれど。子育てをとおして、自分のことだけ考えて過ごしていけばいいのかもしれない。

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