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「正義」を与えられたときに、どうするか

中学2年生。おそらくほとんどの中学校がそうであるように、わたしのクラスの女子もいくつかのグループにわかれていた。とはいえ女子20人みんな仲がよく、休み時間におしゃべりしたり放課後プリクラを撮りに行くグループが違う、という程度。
めずらしく、対立も悪口も揶揄もない、健やかなクラスだった。

ところがキンモクセイの香りがたゆたい、日が短くなってきたころ、あからさまに女子グループがギスギスしはじめた。AグループとBグループが悪口を言いあい、無視しあっている。人畜無害Cグループ所属のわたしはその理由がわからなかったし、両方の子から話を聞いてもなんだか要領がつかめなかった。

で、判明したのが、キツネちゃんがいたこと。AグループとBグループ、言ってもいないお互いの悪口を伝書鳩していた子(Bグループ所属)がいたのだ。

それに気づいた両グループの子たちは、そりゃもう激怒した。罵ったあと、徹底的にその子をシカトした。まあ、気持ちはわかる。振り上げた拳を下ろすのに相応しいと思われる人間が、目の前にいるわけだから。

ところが。
直接は関係ないはずのCDグループその他の女子まで、一斉にその子をシカトしはじめたのだ。
とにかく関わりたくない子、わけがわからないまま話しかけるのを躊躇している子もいたと思うけれど、「許せない」「キモイ」、そんな言葉を聞こえるように吐きかけたり、机をわざと離したり、一挙手一投足を嘲笑したり……。

普段ならやってはいけないこと——つまりイジメめいた行動も、「仕方ないよ、されるだけのことはしたんだから」という空気でごまかされた。

クラスの端っこでひとりお弁当を食べていたその子は、しばらくして学校に来なくなった。女子19人の、穏やかな日々。

しかしその状態がしばらく続くとまた、風向きが変わってくる。やっぱりクラスに不登校の子がいる(しかもその理由は自分たちの態度)のは据わりが悪いから。次第に、「『わたしは』許してあげる」という空気が広まっていった。

結局Cグループのわたしたちが家に通い、最終的に彼女はAB両者に謝り、それを受け入れ、少しずつクラスに平穏が戻ってきた——という話なんだけど。

いまでも思い出すのは、あの「何をされても仕方ない」という空気。
当事者じゃないのに、当事者になりすました正義の怒り。
「なぜ彼女はあんなことをしたのか」「人間が腐ってるんだ」「いや、家庭環境だよきっと」的な、下世話な批評家目線。
わたしは寛容だから許す、という手のひらの返し方。

——人ごとじゃない、自分の話だ。あのときの女子たちの空気は、ネットで誰かを叩く空気とよく似ていたなあと思う。ネット民は叩く対象を見つけると嬉々として叩きはじめる、とはよく耳にするけれど、それはリアルでも同じだ。ネット民の特性というより、人の非も「叩き」も両方が可視化されやすくなっただけ。「正義の人」となれば、人はどこでも誰でも容赦なく叩くことができる。

もっともらしい理由や正義を与えられたときに、それに飛びつかず、じっと口をつぐむのはむずかしいことかもしれない。「変わらずにいること」は、胆力がいるのかもしれない。みんな何か言いたくて仕方がないし、自分の意見を言うことと叩くことが混ざり合っている現状もある。

でも、あの経験をしている自分に……振り返ったときのその醜さや虚無感を知っている自分に、少しは期待したいところもあるのだ。


あれから17年が経つ。大好きなキンモクセイの香りだけど、ふと鼻腔に届くたびに、毎年あの事件のことを思い出している。

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