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素材かワザか。焼き鳥を食べてライターの仕事について考えた

昨夜、シャチョー古賀さんとたいへんおいしい焼き鳥を食べた。ラッキーなことに当日予約できたそのお店は、ほんとうに美味だった。オリジナリティがあって、でもまっすぐにおいしくて。

つきだしから〆のそぼろご飯まで完璧すぎて、うわー、なにこれ、知ってる焼き鳥と違う、やばい、すごい、とボキャ貧をいかんなく発揮しつつ、「きっと素材が違うんだろうなあ」と思っていた。

ワインも遠慮なく飲み、気持ちよくなったわたし。退店間際、焼きを担当していた方に「あの、なんでこんなにおいしいんですか……?」となかなか間抜けな質問をぶつける。すると、意外な答えが返ってきた。

「じつは、素材自体はここらへん(渋谷)の焼き鳥屋さんと変わらないんですよ。一部を除いて、よくあるブロイラーで。ウチは焼き方が普通とは違うんです」

えぇー! そうなの!!

彼は炭の置き方や火力の調整についてていねいに教えてくれたのだけど、普段食べている焼き鳥と同じ素材なんだ、ということにわたしは驚きを隠せなかった。だって、ほんとうに全然別物だったから。その「別物の焼き鳥」が、職人の試行錯誤と発見、そして技術で成り立っているということに感動してしまった。

素材は同じでも、技術次第でまったく違うアウトプットになる。

——これって、ライター・編集の仕事とまったく同じだ。「こうすれば読者に伝わるな」「おもしろい原稿になるんじゃないかな」という試行錯誤や発見の上にいい原稿があるのも、だいたい同じ。

元の素材がよい記事であれば、ある程度は雑に手を入れてもそれなりにおもしろいコンテンツになる。バズったり、読み手の心を動かしたり、世間を騒がせたり。

でも、その「いいコンテンツ」が「もっといいコンテンツ」になるかどうかは、書き手の技術次第とも言える。より多くの人に、より深く、より長い余韻で味わってもらえるよう「火を入れていく」のが、わたしの仕事なんだろう。素材のよさに、あぐらをかいてはいけない。

ライターや編集者の場合は「同じ素材で火入れ勝負」みたいにアウトプットの比較をされることは基本的にないけれど(そんなのやりたくない……)、お客さんに届けるものづくりを担う職人として、試行錯誤や探求を怠らずに仕事しなきゃなあと思ったのだった。自分が書いたせいでここまでしか届かなかった、なんて悲しいし悔しいし、申し訳なさすぎるから。

それにしても1日経ってもまだ「あーおいしかったなあ」とひとりごちれるなんて、おいしいものは偉大だな。ちなみに、同じく感動していたシャチョーはこんなnoteを書いていた。

オフィス移転の前に渋谷の街をもっと開拓しなければ、と謎の使命感に駆られているので、感動できるお店知っている方、ぜひぜひ教えてください。

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