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そのうねりは嵐で終わるのか、社会を動かすのか

ネット上ではときどき、ニュースがわーーっと大きなうねりになる。義憤や正義感、悲しみが、ぐるぐるとわたあめのように膨らんでいく感じ。みんなが「自分はこう思う」を表明し、立ち上がる感じ。ツイッターのトレンドに入り、はじめはAという意見がメインで、カウンターの意見Bがちらほら出てきて、最終的にそれを内包した意見Cで収束していく、みたいな感じ。

こういう「嵐」が起こるとき、自分はどう考えるのか、それを表明すべきなのか、その後どうアクショを取ればいいのか、いろいろまとめて「うーん」となる。

たとえば、このことを考えるときになぜかいつも頭に浮かぶのが、「PCデポ問題」。2016年に大炎上したやつね。
このワードを出すと、みんな「なつかしい(笑)」と言う。そう、なつかしい。あのときは、たくさんの人が「悪事」をあばいたニュースを支持したり、自分の考えを表明したりしたのに、すっかりだれのものでもなくなってしまった。

わたしから見て、あのニュースが盛り上がってたときはみんな「許せない!」って怒っていた。懲らしめなきゃ、こんな人をだますような商売が成り立っちゃだめだ! と本気で思っていた。大暴落した株価を見てよろこんでいた。こういう問題を取り上げるのがネット時代のジャーナリズムなんだ、みたいな考えもあった。

じゃあ、あれだけ多くの人が声をあげて社会は変わったのか。お年寄りや「情弱」からお金を巻き上げるような商売はなくなったのか。・・・・というと、決してそうじゃない(実際、株価は回復したし2017年には再炎上している)。

それぞれの人が小さな意思表明をすることはきっと意義があるのに、その爪痕が残らない。多くの人が「これから自分はどうするのか」に落とし込めないまま、嵐が去ってしまう。

わたしがこわいのは、こういう「嵐のあと、なにも起こらなかったみたいないつもどおりの風景」を何回も見ることで、社会について考え・行動することをあきらめてしまうこと。無力感のせいで、考えるべきことから目をそらすようになること。小学生のころに温暖化問題を知り、「解決したい!!!」と立ち上がり、「自分ひとりじゃなにも変えられないんだ・・・・」と絶望したあのときみたいに。

でも、わたしは粘りたいぞ、と思っている。「じゃあ自分はどうするか」を考えることを放棄しないぞ、と。

ものすごくラッキーなことに、わたしの周りには「あきらめていない人」がたくさんいる。彼らは自分が考え続けるだけじゃなく、アクションを起こすだけじゃなく、それを人に伝えることまで担っていたりする。わたしにとって、昔の人の北極星みたいなものだ。明るくて力づよい指針。
(もちろん、彼らの意見を鵜呑みにするわけじゃなくて、「考え続ける」「伝え続ける」「ちょっとでも動かす」をあきらめないそのスタンスが、「わたしの北極星」という感じ)

——で、なんでこんなことを書いたかというと。
いま2018年7月は、議員の「LGBTの人は生産性が低い」発言からの大きなうねりが起こっているから。こういうとき、ただ「ありえない」で済ませることもできるだろう。でも、どうせなら「じゃあ、わたしはどうすればいいんだろう?」を問うていく自分でありたい。
そんな、小さな意思表明なのでした。

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