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犬と赤ちゃん。いちばん違うと思うこと

我が家は2014年秋に柴犬(テンコ)を迎え、2017年夏、娘がやってきた。

柴犬テンコは、元保護犬だ。埼玉の団地をウロウロしているところを捕獲、収容。保護団体に引き取られ、預かりボランティアと呼ばれる人の家で暮らしているときに、わたしたちと「お見合い」した(この帰り道に天ぷらを食べたので、テンコと名付けた)。そして1ヶ月の〝お試し〟期間を経て、正式にジョインしてもらったのだ。

はじめ、一見クールな柴犬と、犬育てに不慣れな人間たちにはすこし距離があった。けれど、じきに打ち解けた。成犬からでも仲良くなれるのだなあ、とうれしく愛おしく思った。

ふたりと1匹の気ままな生活をたのしむこと3年弱。続いて娘が、我が家にジョインした。

しばらくは「パパとママの愛情を取られた!」とばかりに赤ちゃん返りしまくったテンコだったけれど(娘の沐浴をしてたら後ろで粗相してたり!)、なんだかんだでいまは小さき者同士、仲良く過ごしている。いや、仲良くかわからないけれど、一緒に過ごしている。大変だけど、癒やされる。かわいい。


世の中には「人間を育てることと犬を育てることは違う、一緒にするな」とういうひともいる。けれど、わたしはいまのところ「似てるなあ」と感じている。一族郎党の末っ子で「育てる」経験が全くなかったわたしにとって犬との生活はいい予行練習になったなあ、とも。

たとえば、知識より目の前の存在がすべてだということ。

子育てには「◯◯派」のメソッドがたくさんある。授乳やネントレ(ねんねトレーニング)、離乳食の進め方などなど、ほんとうにあらゆる「派」が存在する。まじめな新米お母さんが、「うちの子、本と違う」とまず躓くところだと思う。

じつは犬の世界にも「育て方論」がたくさんある。「むやみに触ってはいけない」派もあれば「身体をくっつけることで安心する」派もある、みたいに。絶対の正解はなく、どれがこのコに合っているかは、人間が見極めるしかない。

わたしは最初、それがまるでわかっていなかった。テンコを迎えた当初は「撫でるとストレスになる説」を鵜呑みにしておさわりを遠慮していたけど、後に彼女は「できるだけ人に撫でられたいかまって派」だと判明。正解はないのだな、と噛みしめた。当たり前のことかもしれないけれど、わたしにとっては大きな学びだったのだ。

こんなふうに、「育てる」ことに対してのちょっとした心構えや心得は、テンコのおかげで培われたと思っている。だって子育てと犬育ては、ほんとうにたくさんの共通点があるから。

幼少期におけるおとなとの関係が肝要ということ。拾い食べすること。やってほしくないことには短く「ダメ!」と言うorスルーすること(うっかり大騒ぎすると遊びだと勘違いする)。プープー鳴るものが好き、紙を破るのが好き、なんて共通点もある。また、「子が周りに迷惑をかけて落ち込む」のも同じだろう。


 ——でも、娘と犬では、圧倒的に違うことがひとつある。

どれだけ生きるのか、もっと言えば「わたしのいない世界を生きるかどうか」だ。

テンコは家族の中で、真っ先にいなくなってしまう。悲しいことだけども、そうじゃなかったら、たぶん想像以上にひどく悲しいことが起こったということだ。わたしや夫、娘はほぼ間違いなくテンコを看取ることになるし、それはそうであってほしい。彼女は最期のときまでずっと、わたしたちに守られて生きていく。

一方の娘は、ほぼ間違いなく、親のいない世界を生きる。その前にわたしのもとから離れて、自分の力で生きていく。犬と違いいつまでも抱っこさせてくれる存在ではないし、親の仕事は自立する力をつけることにある。

犬との関係は静的で、どんどん深まっていく。娘との関係は動的で、どんどん変化していく。うまくいえないけれど、そんなイメージだ。


我が家のテンコは保護犬だから、正確な年齢がわからない。あとどれくらい一緒にいられるか予想もつかない。でもきっと、大人になった娘はテンコとは遊べない。思春期を共に過ごせるかも、わからない。でもでも、娘の長い人生のほんの短い間、テンコはたしかに存在していて……。

ふたりを見ていると、時間の流れや寿命、巣立ちというものについて考えさせられるよ。

どうもありがとう、我が家の小さきものたちよ。

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