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文章が映し出すもの

文章ってすごいと思う。書き手を、けっこうリアルに反映するから。

背筋の伸びた文章を書く人はやっぱり背筋が伸びているし、
優しい文章を書く人は優しいし、
自尊心がにじみ出ている文章を書く人は自分を大きく見せようとしている。

フラットなひとだなとか、自信のなさをごまかそうとしているぞとか、支離滅裂だけど愛されキャラなんだろうなとか、ちょっと面倒くさそうとか、はっきりとじゃなくても、たしかに伝えてくれる。

そのあらわれ方はいろいろだけど、とにかく「人間」が見えてくる。会ったことがないひとでも、顔が見えるし声が聞こえてくる。そのひとの文章が心底好きなら、会ってガッカリすることは少ないんじゃないかな、と思う。お仕事やブランディングのために、計算して意識的なコントロールしきってるひとでなければ。

こうした文章の「オーラ的なもの」は、文体や言葉の選び方、あとは論理構成をひっくるめた総合的な印象からつくられる。これは、インタビューして文章を書くライターの場合、話し手をどう伝えるのか腕の見せ所にもなる。いわゆる「イタコになる」というのは、ここらへんの話だ。

そして、文章にあらわれるのは性格やキャラクターだけじゃない。コンディションも同じだ。

とくに毎日noteやブログ、Twitterを更新してるひとの文章は比較しやすくて、くたびれてる日はくたびれてるし、楽しそうなときは文章が跳ねている。あ、なんか言いたいことがあるけど飲み込んでるな、と気づくこともあるし、文章が下手なわけじゃないけどものすごいスピードで書いたんだな、とわかることもある。


で、わたし、昨日とっても心が重くなることがあったんです。娘のことで、胸が張り裂けそうっていう陳腐な表現を使わざるを得ないくらい、心配でつらくて。いまも不安で泣けてくるんだけど。

ある人とメッセのやりとりをしていて、昨日書いたnoteの後半が「らしくない気がした」と言われて、そのとおり、前半を書いたあと、悲しいことがあり、半ば呆然としながら書いたのが後半だったのだ。テンションの落差は、フットボールアワー後藤さん風に言うと「耳キーンなるわ!」くらい大きかった。

怖いのが、自分では「ちゃんと書いた」って思っていたところ。読み返して、「とりあえず、すべきことはいつもどおりできたぞ」と思っていたこと。

メンタリストにお見通しされた、そんな気分だったけど、案外たくさんのひとに伝わってるのかもしれない。恥ずかしい。

文章は、自分を映し出す。とくに、「自分」のことを書く文章は。

油断ならないねえ、ほんと。今日のわたしは、どうだろう。

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