「真ん中を見つける」ということ

週末、友人の家に数ヶ月ぶりに遊びに行くと、前回はなかった白いジョイントマットがリビングの端から端まできれいに敷きつめてあった。入った瞬間「おお」と声をあげる。

「赤ちゃんが転んでも安心だし、おもちゃを投げつけられても傷がつかない。心の安寧を手に入れたよ」と友人は笑い、わたしは「うん、めっちゃいいね」と答えた。

——過去の自分よ、聞いてくれ。わたし、本当に心から「めっちゃいい」って思ったから。うちもやろうかなって思ったから。

ちょっと前だったら、素直に「いいね」なんて言えなかった。そして娘が生まれる前だったら「絶対イヤ」と思っていた、確実に。

「いかにも『赤ちゃんがいます!』ってインテリアにはしない」

「アンパンマンみたいなキャラクターものなんて絶対に家に入れない」

「できるだけシンプルで、色味を抑えたモノを選びたい」

……ああ、「#育児あるある」というタグがつきそうなありふれた意気込みたち! だけど、本気でそう思っていた。そこにアイデンティティがある気がして。生活が子ども中心になる、そんなことさせてなるものかって。

面積の大きなジョイントマットは最高級の悪で、ひとの家にあるのもイヤ。「なにか大事なものを捨ててない?」と、咎める気持ちにすらなっていた。

娘が生まれてからも、しばらくはそんな気持ちは捨てられなくて。ここを譲ったらつまらなくい人間、ダサい人間になってしまう。個としての自分を失ってしまう。(パパとママではなく)夫婦であるわたしたちがいなくなってしまう。それは、許せない。


……だけど。

寝返りも打てずふにゃふにゃと小さなベッドの中だけで過ごしていた娘は日に日に人間らしくなり、こちら側の生活に少しずつはみ出してきた。益子焼と並んでカラフルなプラスチックの食器が登場し、隠しようのないサイズの手押し車はリビングに鎮座し、洗面台に並ぶ3本目の歯ブラシは派手だ。

そうして生活が「2人プラス赤ちゃん」から「3人」になっていくと同時に、自分の中での許せる範囲が変化していった。「赤ちゃんのいる家」で、いいじゃん。

だって、3人の家なのだ。3人プラス、柴犬テンコの家。みんなちょっとずつ譲り合い、それぞれが満足する最大公約数的なところを目指す。それが家族で暮らすということだな、とあきらめがついた。

ネガティブな意味ではなく、そういうものだと思う。すべてを「いちメンバー」のコントロール下に置くなんて、むりだし怖い。

これは、子どものために親がすべてを我慢し、妥協を重ねるということでもなくて。

ジョイントマットがあるとメンバーのひとりである娘(とテンコも)が快適に暮らせそうだから、使う。でも、メンバーのひとりであるわたしはシンプルな部屋が好きだから、できるだけ主張のないものを探す。

「真ん中を見つける」。いまの「生活」は、そんなイメージだ。

家族である以上、わたしの意地やこだわりだけを強いるのは反則。だから娘がキャラものを欲しがったらそれを叶えてあげよう、渋々であっても。寝るときは必ず片付けてよね、といった落としどころを見つけながら——なんて妄想している。

こんなふうに、メンバーの「いいね」を探っていくことをサボりたくないなと思うのだ。それはもちろん、自分も同じ。「わたしが我慢すればいいや」を続けたら、それこをつまらない人間になってしまう気がするから。

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花粉症しんどいけどハッピーになりました!
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田中裕子

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