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親友って言葉は恥ずかしいけれど

親友、という言葉を使うのは、どこか気恥ずかしさがある。青臭くて、特別感があって、わざわざ「友人」じゃなくて「親友」と使うその自意識の高さ、みたいなものが。いや、それを自意識が高いと捉えることが自意識が高いのかもしれない(ループ)。

そんな面倒くさい気恥ずかしさに共感する人がどれだけいるのかわからないけれど、少なくともわたしはいつも「仲のいい友人」と言い換えてしまうのだ。

しかしあえて言うと。
わたしには、親友がいる。
親友だと思っていて、たぶん向こうもそう思っている友人が。

◆  ◆  ◆

彼女とは、高校から一緒だった。授業を休みすぎて進級できるかできないかというわたしの出席日数を数えてくれたのは彼女だし(「裕子、もうダンスは休めないよ。数学は大丈夫」)、大学を見ないと勉強のやる気が出ないという口実で東京まで一緒に遊びに行ったこともある。

高校3年の夏だったか、彼女がウソをつき、わたしの第一志望校だった早稲田の指定校推薦を取ったことでかなり険悪になった。いま思うと結構どうでもよくて笑えてしまうけれど、当時は彼女の弱さが許せない気がして深刻だったのだ。でも、「とはいえこのまま喋れないのは嫌だなあ」と移動教室の帰り道に話しかけたことは、いまも鮮明に覚えている。

大学時代は同じサークルに入ったし、旅もした。就職した後は2年間、大崎にある築30年のマンションでルームシェアした。

先に彼女が子どもを産んだり遠くに引っ越したりして会う回数が減ったこともあったけれど、その期間もふつうに親友だったと思う。

……というより、高校のときは「ああ、この子が親友だな」と思ったこともあったけれど、そんなことすっかり考えなくなっていたなあと今日気づいたのだった。

そして、あれ、親友の定義ってむずかしいな? と思った。

大人になってから知り合った、めちゃめちゃ大好きな友だちはたくさんいる。ママ仲間だったり、編集ライター仲間だったり、犬友さんだったり、「○○の会」仲間だったり。年齢なんて関係なく「友だち」と呼べる人がたくさんできた。

彼らとは「親友」である彼女よりよっぽど頻繁に会って、SNSやメッセでやりとりして、考えていることをシェアして、助け合って、刺激を受けて、関係性をアップデートしている。いまのわたしを知ってくれている。

しかし「親友か」と言われると、ぐ、と詰まってしまう。それは気恥ずかしいとも違う、遠慮と保身の気持ちだ。

だって、親友って、一方的にはなれないから。相手も「ふつうの友だちとは一線を画している存在」だと思ってくれていないと、片思いみたいになってしまう。かといって、「わたしたち親友だよね」と言うのも究極的に野暮で、つまり親友とはツーカーでしかなれないのだ。

と考えると、親友って圧倒的な信頼から成り立つものなんだなあ。とくにわたしは「あの子のことめっちゃ好きだし超仲いいけど、相手にとってはわたしレベルの友だちはたくさんいるかも……」と一歩引いてしまう性格なもので。だからこそ、あらためて彼女との関係にほれぼれしてしまう。

これから生きていく中で、新しい「親友」はできるのだろうか。もちろんあえて言葉にはすることはないだろうけれど、ああ、大好きだよ大事だよとお互い思ってるよね、と信じられるひと。できたらいいなと思うし、できるような予感もしている。楽しみだな。

それでも、彼女より旧い親友はいない。
それもまた、嬉しいことだと思う。


じつは今日、その「親友」と会った。帰り道にわたしがぽつりとこぼした悩みに、バイバイと別れたあと昔どおり寄り添うLINEが送られてきて、ぐわんと心が揺れたのでした。

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