核家族のデメリットは「かわいい」が増幅しないこと

週末は実家の鹿児島に帰省した。里帰り出産はしなかったので、1歳1ヶ月の娘と会うのは母3回目、父は2回目。娘よ、どうか人見知りしないでおくれ、実の親とはいえ気を遣ってしまうから。それはそれで疲れてしまうから。……と、少しだけ心配していた。

結果。

実家はパラダイスだった。赤ちゃんがいる空間において、大人の目が8つ、差し伸べる手が8本あるって、なんとすばらしいのだろう! 子育て経験ほぼゼロ、気持ちいいくらい戦力外の父ですら、「危ないことをしないか」くらいは見ることはできる。それだけで、ほんとうに、とてもありがたかった。

じつは最近、「核家族無理」が家庭内流行語になるほど、夫婦2人で子どもを育てることが「よいこと」に思えず悶々としていた。だから余計に「この環境、いいなあ」と考え込んでしまったのだ。

たくさんの人に囲まれ、可愛がられ、それぞれの関係性を感じたり価値観に触れたりすることができる娘。

「ちょっと見てて」と隙間時間が確保できることで、やりたいことを完遂できる私(子育て中、「なにかをやりきること」は思った以上にむずかしい)。

そして、孫との時間を心から喜び、張り合いを感じる祖父母である両親。

——いろいろと「いいな」と思うことはある。けれど、中でも今回いちばん感じたのは「かわいいが増幅する」ということだった。

子どもはかわいい。それはそれはかわいい。「子どもはかわいい」という言葉でしか表現できない、その不自由さに悶絶するほどかわいい。

……と、普段くどいほどに思っていても、実家に帰るともっとかわいく感じるのだ。なぜ。、両親や親戚が、くどいまでに「かわいい」と言ってくれるからだ。「かわいい」という言葉が重なり、反響して、どんどん増幅していく。

おいしいごはんは一人で食べてもおいしいけれど、「おいしいねえ」と言い合って食べるともっとおいしい。好きなアーティストの音楽は部屋にこもって聴いても染み入るけれど、ファン同士で「埼玉スーパーアリーナの3曲目の演出がやばい」と言い合ったりするともっと楽しい。そんな感覚に近いだろうか。

核家族で子育てしていると、娘のことを日常的に「かわいい」と言い合うのは夫婦だけになる。だから「群れ」のメンバーで娘を見つめ、彼女について語り合い、それによってさらに「かわいい」となる感覚には、なかなかの多幸感があったのだ。

もちろん完全同居となれば面倒なこともたくさんあるだろうし、それはそれで悶々とすることもあると思う。それでも子育てにおいては、メンバーの数は多いほうがいいんじゃないか、というのが今の私の仮説だ。人間は群れで赤ちゃんを育てるように進化してきたから、核家族に無理を感じるのは当たり前のことかもしれないけど。

群れで育てたいと思いながら、それでも私たち夫婦は東京で生きていくことを選んでいる。現実的にも、気持ちの上でも、しばらくここを離れるつもりはない。

自分たちらしい群れ、東京で見つかるかな。ないなら、つくれないかな。自分も誰かの「この子はかわいい」確信を深めるメンバーになれないかな。

そんなことをちょっと真剣に考えた帰省だった。

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