加湿器とキャッチャー・イン・ザ・ライ

一般的に、浴室の乾燥機や空気清浄機、加湿器のフィルターってどれくらいの頻度で掃除するものだろう?

今冬わが家に迎えた加湿器、今朝はじめて「フィルターを掃除せよ」のアラートが鳴った、らしい。らしいというのは、朝起きると夫がお風呂場でフィルターを洗っていたからなのだけど。説明書を見てみると、「2週間に1回は掃除してください」と書いてあった。(2週間かあ……頻度高いな……)と思いつつ、お風呂場から戻ってきた夫に話しかける。

「ねえ」
「うん?」
「どれくらいの人が、2週間に1回掃除してると思う?」
「うーん、ほとんどしてないんじゃない?」
「だよね。ちなみにお風呂の換気扇には『月に1回フィルター掃除して』って書いてあるんだけど、知ってた?」
「知らなかった。みんなやってないんじゃない? とくに賃貸の人は」
「だよね」

夫婦で同じ程度の掃除リテラシーなのは、果たしてよいことなのかどうか考え込んでしまう会話である。

さて、わたしは、家をきれいに保つことが苦手だ。でも、「そろそろ散らかったきたな」というタイミングでぐわっと掃除するのは好きだし、得意。お客さんが来る直前の片付け力には定評がある。目に見えた変化を起こすのは楽しい。

しかしながら、フィルター掃除はじめ、家にまつわる仕事は「保つため」のものが多い。洗濯物をその都度畳んでしまうのも、ほこりが四隅に溜まる前に掃除機をかけるのも、料理の後に飛び散った油をぬぐうのも。だれかが粛々と整え続けないと、家はすぐに荒れてしまう。

ただ、だからこそ評価されづらいのが、家事の歯がゆい性質だ。たとえば仕事から帰宅したとき、朝は薄汚れていたはずの家がピカピカきれいになっていたら「がんばって掃除してくれたんだね!」となる。

けれど、フィルターや排水溝に手を入れていたとして「今日も家をきれいに保ってくれたんだなあ」と感じるのは正直むずかしい。10の汚れが0になったら明らかに気づくけれど、1が0に、しかも見えないところが整えられていても、少なくともわたしは気づく自信がない。それは日々の洗濯だってそうだし、落ちている髪の毛を拾うことだって同じ。そこに住む人の、「当たり前」が保たれていることに気づき感謝できる心が必要だ。


社会もまさにそういう側面がある。

明らかに社会を変えてくれる人や仕事は、目立つし、かっこいいし、インパクトがある。憧れられるし、金銭的な評価も高い。

でも一方、社会を粛々と整え、秩序が乱れないよう、ていねいに回してくれる人がいて。彼らの「気づかれない仕事」「たいして感謝されない仕事」「儲からない仕事」があるからこそ、わたしたちは快適に暮らすことができる。

こういう仕事をしているとやっぱり、社会に大きなインパクトを与え、よい方向に変える仕事を手がけた人に会うことが多い。その度胸やアイデアに「すごいなあ」と舌を巻く。

ただ、そうした人たちのことを尊敬しながらも、そのわかりやすさだけに目がくらんだ人間にはなりたくない。だれかがやらないと乱れてしまう世界を静かに支えてくれている人、粛々と家と社会を整えてくれる人たちの仕事を、「単純作用」「ルーティン」と小馬鹿にするような人には。


……という話を夫にしたら、内田樹さんが14年前に書いたブログを思い出したと言って紹介してくれた。彼は加湿器のフィルターを掃除するような人を、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』から引いて「キャッチャー」の仕事と呼んでいる。

世の中には、「誰かがやらなくてはならないのなら、私がやる」というふうに考える人と、「誰かがやらなくてはならないんだから、誰かがやるだろう」というふうに考える人の二種類がいる。
「キャッチャー」は第一の種類の人間が引き受ける仕事である。
ときどき「あ、オレがやります」と手を挙げてくれる人がいれば、人間的秩序はそこそこ保たれる。
(略)
家事を毎日きちきちとしている人間には、「シジフォス」(@アルベール・カミュ)や「キャッチャー」(@J・D・サリンジャー)や「雪かき」(@村上春樹)や「女性的なるもの」(@エマニュエル・レヴィナス)が「家事をするひと」の人類学的な使命に通じるものだということが直感的にわかるはずである。

「同じことを言っているのに、教養の差がすごいなとおもいました」と言ったら、夫は爆笑していた。

サポートありがとうございます。いただいたサポートは、よいよいコンテンツをつくるため人間を磨くなにかに使わせていただきます……!