『吉祥寺だけが住みたい街ですか』のように思いたい

先日、ひさびさに吉祥寺をうろうろした。

結婚してしばらくは三鷹に住んでいたので、となりの吉祥寺は「おらが街」的な感覚がある。いい街だ。それでも遠い街に引越したいま、足を運ぶ機会は減ってしまった。

井の頭公園や、国内最高齢の象・はな子(享年69)がいた自然文化園。アーケードのあるサンロードやダイヤ街。映画館オデヲン。結婚も妊娠も満面の笑顔で喜んでくれたお母さんとお父さんの営む「おでん太郎」。ビオワインのおいしさを知った「ビアンカーラ」。毎年夫とクリスマスを楽しんだ北欧料理「アルトゴット」。とりあえず集合の「日本酒 酛」。「いせや」の香り。

——ああ、思い出がありすぎて書き切れない! ひさびさに歩いた吉祥寺はいろいろ様変わりしていて浦島太郎感はあったけれど、それでもやっぱり大好きな街だなと噛みしめた。



さてさて、吉祥寺と言えば公園が近く住環境がよい、買い物に便利、新宿と渋谷に出やすいといった理由で、常に「住みたい街ランキング」の上位に食い込むことでも知られている。その影響もあり、『吉祥寺だけが住みたい街ですか?』という人気コミックも生まれた。

この「住みたい街ランキング」は毎年発表されていて、順位が墜ちるとすぐ「人気にかげり」と悪し様に書かれてしまう。たとえば、個性派おしゃれタウン・下北沢は2010年には9位だったのに2018年は圏外、その理由は再開発でふつーの街になってしまったからである——というふうに。

個人的にはこうしたネタはあんまり好きじゃない。最近ときどき耳にする言葉、「街格差」もなんだかなあと思ってしまう。

もちろん好きな街やすてきな街を挙げてキャッキャするだけなら全然楽しいし、わたし自身も今住んでいる街を愛しすぎているのだけども。こういった話題では、「そうじゃない街」をサゲる発言までついてくるのがイヤなのだ。

「東京はいま東側がアツイ(だから西側はイケていない)」とか、「都心のターミナル駅が人気(だから郊外の駅を選ぶのは愚かだ)」とかさ。

これと近いなと思うのが、自分しか真実を手にしていないかのような、
「自分の選択上げ+それ以外の選択サゲ」
の姿勢。
自分の選択こそ正しいと心底信じているのか優越感に浸るためなのかわからないけれど、自分の主張とは違うものをやり玉にあげて否定するひとは多い。会社の選び方、働き方、好きな映画、結婚のかたち、なんでもかんでも。

もし、純粋にいい情報を伝えたい気持ち、「目を覚めせ」という気持ちがあるなら、わざわざ下に見たり煽ったりするのはノイズが増えるしナンセンスだ。やさしい啓蒙の仕方を模索するのが知性なんじゃないのかなあと思う。

でも、まず大切なのは「自分と相手のベストが違う可能性」にあらためて思いを巡らせることなのかもしれない。

不動産の話で言えば、ランキングなんてどうでもよくて、みんなそれぞれ好きな街、フィットする街に住めばそれでいいわけで。

『吉祥寺だけが住みたい街ですか』だって、吉祥寺もほかの街も一切下げない。お客さんにフィットした街を紹介して、その街のいいところに注目して、「自分が選んだ街」に生きることの楽しさみたいなものを伝えてくれるからこそ、人気になったんじゃないだろうか。

ある友人は文京区の千石が住みやすいよと言い、ある友人はニューヨークこそ世界一だと言い、ある友人は大宮サイコー、と言う。それでいいのだ。このとき「世田谷区こそ最高なのにバカなの?」なんて言う必要も意味もないんだよね。

「よかったね、あなたにとっていい選択ができて!」

お互いそう思えたらラクだし疲れないのになあ。そう考え込んでしまうできごとが立て続けに起こった、1月上旬なのだった。


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