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回想記2 『吾妻ひでお先生について』

始めるに当たって断り書きですが、前回のかがみさんの時もそうですが、話は盛っていません。

ですから事実だけで地味な内容かも知れません。

ただその時感じた自分の印象はそのまま書いていきます。

・吾妻ひでお先生のアシスタントになるまで

まず、当時のマイナー業界でロリコンブームがあって、吾妻先生はそのレジェンドであり、急先鋒でもありました。

自分は当時でいうロリコンカテゴリ系の人間では無かったということは十分承知していて、美少女は描いても性的対象としては描かなかったことで排除された気分になっていました。

性的傾向を漫画に持ち込む素養がもともと無かったといった方が正しいかもしれません。

逆にそのことでおたくの仲間に入れないことで悩みさえしました。

なにせロリコン系作家であった方がマイナー業界では仕事があった時代でしたから。

今じゃ考えられませんよね。

話は前後しますが1983年(昭和58年)に遡ります。

電研でバイトをしながら、ミニコミ誌「れとりか」をコミケ以外にも販路を求め、新宿2丁目にある常設同人誌販売所「ふりーすぺーす」を訪れました。

そこはゲイタウンのど真ん中のマンションの一室にあり、非常に怪しい雰囲気で、いかがわしい同人誌を取り引きするにはピッタリの場所でした。

そしてそこで「METAL MILK」というロリ絵でホラーを描くという画期的な同人誌に出会いました。


それはMETAL MILKの第1号と主筆のくり鋭斗氏の「ロッキーモーリーホラーショー」というかわいい小冊子で、たちまち彼らの描く作品に夢中になりました。

同誌を発行しているスタジオハロウィンでは、他に人知れずビックリマンシールの全キャラクター担当だった山内真さん、後に白夜書房からスティーブン・キング研究本を出すホラー評論家の奥沢聖治さんがいました。

それでたまらずコンタクトを取るわけですが、それがコミケでブースを訪ねたのか手紙を出したのかは憶えていません。

しかしそれが縁でMETAL MILKの2号に描かせてもらうことになりました。

嬉しかったですね。

それが柄咲遊というペンネームで描いた「Live in 3D」という作品です。

3D映画からモンスターが実体化するホラー物で後に新書館のウイングスでリメイクしています。

その同人誌が看板になり、美少女系ホラー漫画の一時代を築くかと思われましたが、そうでもありませんでしたね(笑)

でも当時珍しい乾いた作風でのホラー漫画として一部で話題になった気はします。

のちにかがみさんの仕事場で知り合った久保書店の久保編集長が有り難いことにMETAL MILKを見て、レモンピープルのホラー増刊号に仕事をもらったりしました。

「LIVE in 3D」がそれなりに業界内ではウケてたんですよね。

久保さんは打ち合わせには必ず原チャリやってくる機動力のある編集さんで、無理は言わず金も無くマイナー編集の鑑のような方でした。

久保書店と言ったらレモンピープル、レモピーですからね、かがみさん描きませんでしたよね、何でかな、雑誌タトゥ回避かな。

僕は関係なく描きましたけどね。

かがみさんのお葬式が終わり1994年も秋口に入っていました。

そして久保さんの斡旋で、ちょうど臨時アシスタントを探していたあのレモピー作家、計奈恵さんのところに行くことになりました。

東長崎だったっけな。

作品は講談社かどこかの「クリーミーマミ」のコミカライズ(そんな言葉は当時無いけど)でした。

計奈さんは当時このま和歩さんと一軒家をシェアしていて(こんな言葉も当時ry)作画をしながら漫画を描くコツなどいろいろ教えてくれました。

「とりあえず女の子の涙をどこかで見せると読者投票の順位がちょっと上がるよ」と言っていました(笑)
付き合いはその時だけでしたが、すごくいい方でした。

しばらくしたら計奈さんから「吾妻先生がアシスタント探してるんだけど、どう?」みたいな電話があったと思います。

これにも見えない伏線があって、当時吾妻先生は白泉社の「コミコミ」という月刊誌で『幕の内デスマッチ』という作品の連載を始めていて忙しくなっていて(1回のページ数が多い)その担当のTさんが強度のラブクラフトファンだったんですよね。

だから美少女ホラーの僕が引っ張られたと踏んでいます。

でも吾妻先生と言ったらその筋では大家だし緊張するなどうしようかと思いましたが、ぽつぽつ来るマイナー誌の仕事だけじゃ食って行けないので行くことにしました。

かがみさんのところのように徹夜はなく毎日アパートに帰れますし、職場環境としてもとても良い。

それで10月に入り、大泉学園の保谷駅寄りの吾妻先生の仕事場で一日仮仕事をした後本採用になりました。(冒頭の写真のカーブ内側のマンションに仕事場がありました)

かがみさんの仕事場が閉じてわずか2ヶ月後のことです。

・吾妻先生のアシスタントに入って

先生の仕事場には溝呂木さんという年長のアシさんがいて、まず吾妻先生が人物に主線を入れたら原稿を床に投げどんどん溜まっていくんです。

それを僕が拾って背景その他を描きます。

ペン入れが全部終わると溝呂木さんが消しゴムかけ、ベタトーンをするという、3人体制のルーティンになっていました。

案の定先生描くのはめちゃくちゃ速いです。

16ページくらいの漫画なら一日で作業は終わるんです。

思うに週間漫画雑誌の執筆ペースは6~70年代の漫画の作画密度によって実現してたと感じるんですが、80年代のメビウス~大友ブームなどで作画密度は上がり、現場はどんどん過酷になって行ったと思うんですよね。

それをアシスタントの数で補うようになり、そうなると今度は採算的に現場を圧迫します。

原稿料はアシスタント代に全て消え、コミックスが出ないと収入もままならなくなって来るわけで、漫画家になるのもヒット前提になってくる。

あるメジャー誌編集が、実家が太くないと漫画家は難しいよと言った話がありますが、当時はそれ聞いてすごく寂しく思ったものです。
編集者自らが漫画界の間口を狭めるようなことを言っているんですから。
でも現実問題として、それに近い前例をいくつも知っています。

安泰に見える連載作家でもです。

だから来る仕事は拒めない、新人ならなおさら、というかがみさんのようなことも起こるんですね。

良し悪しはともかく現実として。

だからこれは漫画家志望者に限らず、フリーランスを目指すのなら無理して独立などしないで、太くなくても実家に籠もるのがいいと思いますね。

寿命的に。

そこではチーフ的な年長の溝呂木さんはマニアックな性質の全く感じない人で、吾妻先生の仕事場はおたくの巣窟みたいに思ってた僕には、少し拍子抜けでした。

仕事が明けてマンションのドアを開けると向かい部屋のドアが開けっぱなしになっていて、家紋付きの暖簾越しに畳に寝転がった若い衆の素足が見え、そこだけが不穏なムードでした。

お察しの通りと言いますか、かがみさんの仕事場と全く違い、編集さん以外の出入りはほとんどありません。

空気で言えば「まずいところに来ちゃったかな」というくらい仕事中は無言でした。

まず昼頃に合鍵で仕事場へ入ると、四畳半の方の布団で寝てる先生を起こすのが日課で、枕元にはいつも黒いウイスキーの瓶がありました。

起きてくる先生はいつも二日酔いで蒼白で、なにげに話しかけられる雰囲気は全くありません。

今となれば吾妻先生的にはそういう時期だったのかもしれませんが。

(以前を知らないので)

そうですね、おたくとかマニアックというより正反対の無頼派のイメージで、ある仕事明けに飲み友達が訪ねてきて、先生曰くには地元の飲み屋でたまたま知り合った漫画とは全く関係ない知り合いだそうで。

先生の漫画で呑みの連れとして出てくるあの黒塗りのキャラクターそのものです。

あのキャラ元祖カオナシですよね。

当時の奥さんが赤ちゃん抱えてやって来たこともあって、なぜだか緊張感が漲っていました。

まぁ分かるんですけど微妙な空気を読めってやつですよね。

一番驚いたのは冬コミの前に来た老舗同人誌の原稿受け渡し後に放った一言で、内容は殺伐そのもので、とてもここには書けません。

先生は太宰治系じゃないですね。

間違いなく坂口安吾系です。

一ヶ月くらいして吾妻先生は無頼派の詩人なのだなと思い始めてからは、向かい部屋の若い衆と世間話ししてるのも頷けたし、かがみさんのところみたいに仕事中にビデオで特撮や流行りのアニメなんて間違っても流さず、一服しなら映画『竜二』観てる、そういう印象でした。

いいからと言って枕元に万札置いていく、そういう流儀なんですね。

僕のルートで違法ダビングした『狂い咲きサンダーロード』を持っていった時はとても喜んでましたね。

あそうか『Live in 3D』はロリコンっぽいふりをして乾いて殺伐としていたから呼んでくれたのかもなと思います。

なにかの話の流れで手塚治虫(敬称略)の話になった時は「あの人の絵に全て狂わされたんだ」とも言っていました。

そこにあるのは遠藤周作の小説『沈黙』の、キリシタンをロリコンに入れ替えて弾圧されるイメージ、または人生が退屈だからあえて逆らう遊戯性があり、縛りはなんでも良かったんだろうなと思いました。

「ななこSOS」の真鍮踏み絵出したら売れたでしょうね。

自発的に文学的に狂うなら本望だけども、育った環境的に一方的に狂わされるのは我慢なりませんよね。
でもディズニー由来の手塚絵に魅惑されてしまったのは自分で、秋田書店系の軽佻浮薄さに閉口しつつも文学性への魅惑は捨てがたく、酒が手放せなくなるのも無理は無いという感じだったんでしょうか。(すいません…僕の感想過ぎました…)
でも実際、チーフの溝呂木さんはあすなひろしファンのおたく的感性の全くない人で、しかも当時34歳(!)だった吾妻先生よりずっと歳上の40代。
この時はまだ気づかなかったんですが、そういえばロリコンブーム以降、沢山いたはずのおたくの取り巻きの人たちが、仕事中一度として訪れたことが無かったんですね。
入れ替わり立ち替わり出入りしていたかがみさんの仕事場とは大違いです。

ある時仕事中に電話がかかってきて、それが諸星大二郎先生らしくて(話してる内容から分かった)もう緊張しました。
電話口の向こうに諸星先生がいらっしゃる!
どうしよう!(仕事しろよ
でも電話が終わっても間違っても「いまの諸星先生ですよね!」なんて話かけられるムードじゃないんですよね。
でもしばらくして『孔子暗黒伝』の単行本を持っていって
「諸星先生が来られたらサインしてもらってくれませんか?」
と頼んだら、
「パーティーの時自分で頼めばいいじゃないか」と笑われました。
そういえばそうなんですけど、声をかけられないから頼んでるんですけどね。
当時は空回りというか、自分からなにかすると大体うまく行かないんですよね。
世界はあくまで受け身で回っていく。
原稿依頼でもなんでも。
下手に動かず漫画を描くしかない。
だんだんそんな習性になって行きました。

年齢差もあって(10歳くらいですかね)仕事場にはそんなスリルがあり、ある日ネーム待ちの編集さんが詰めている時、吾妻先生が「ちょっとタバコ買ってくる」と言い席を立つと「いえいえ私が…!」と編集さんが玄関口まで追いかけたり。

全てがこんな感じで、かがみさんの仕事場とはまったく違って保谷ノワールでした。

しかし吾妻先生が晩年に描かれていたアイドル絵とか見ていると、美少女描くのは嫌いなはずはなく、それが麻薬的な楽しみだったとしても、誰が責められるだろうと思います。

少女絵描いてると痛みが和らぐのは僕もよく知っています。

それが性的な属性をまとって無くてもです。

だからくり鋭斗さんに「田中さんのはちょっと違う気がする」と言われた時は寂しかったですし、別に怒っているわけじゃなく、いいえ痛いのは同じですよと返事したかったですね。

1984年の年末も近くなり吾妻先生の仕事場にも慣れてきた頃、白泉社の吾妻先生担当のTさんが、コミコミの別冊で吾妻先生の特集本出すので、それに田中君の漫画も載せたいのでネーム描けと言ってきます。

それまで笠原出版、久保書店など当時で言うマイナー系で短編を数本描いてましたが、白泉社は大手だか順大手だか大きめの出版社なので頑張ろうと思いました。

たぶん吾妻先生が口添えしてくれたんだと思いますが、これが大きな誤解だったなと思うんですよね。

僕には漫画スキルがまだまだ足りなかったんですよ。

この漫画は『いっこちゃん最後の日』という10ページ足らずの作品でしたが、吾妻先生のところで仕事してペンタッチなど漫画の描き方が大きく変わったと実感した内容でした。

ネーム直しも5回もして、最後のころは悔しくて帰りに道端で泣きましたね(笑)

印刷された特集本が届くと吾妻先生は「編集Tさんが田中君の育ての親ってことになるな」と言っていました。

そしたらその漫画が吾妻先生以外のゲスト中投票で1位になってしまい、原稿料が倍になりました。

同じ頃には同時にゆうきまさみ先生の初期短編の手伝いもしていました。

ここでゆうき先生の凄いところは近所の喫茶店でモーニング頼んでパクつきながら漫画描いてるんですよね。

僕には人のいるところじゃとても無理で。

プロの漫画家はすごいなあを超えていました。

そんなわけで自宅で自分の漫画も描きながら色んなアシスタントもしてちょっと大変でしたが、スケジュールがなにがなんだか分からなくなり遅刻して行った時はさすがに時間は守れよと怒られました。

年が明けてから吾妻先生は双葉社から出すハードカバーの全集本の制作に取りかかります。(注1)

「全集本を出すと危ない」と当時良く聞きましたが、なにが危ないかっていうと忙しくなるからです。

仕事が普段抱えてる連載に加えてですから忙しくなるのは当然です。

だから先生が全部やらずに、表紙絵と扉絵のペン入れを済ませると僕が指定通りに彩色していくという流れになりました。

かがみさんの場合は「新人だから来る仕事は全部断れないんだよ」と言って多忙になって行きましたが、吾妻先生はアシスタントの数を増やそうとはしませんでした。

彩色は基本楽しい作業だったので僕は苦ではありませんでしたが、先生は大変だったに違いないです。

僕にとっては吾妻先生の仕事場は漫画の学びの場で、テクニックと言うより「こんな感じで描けばいいんだ」というリラックスした描き方をものすごく吸収できました。

技法じゃないんですよね。

このくらいでいいんだという抜き方でしょうか。

まだまだ取っ掛かりに過ぎませんでしたが、すごく漫画を描くのが楽しくなったのを憶えています。

ここで何年かやれば生活も安定するし、これから漫画の技法も憶えて行こうと思っていました。

要するにその頃まだ自分の漫画の描き方が出来上がっていなかったんですね。

いつも描いていて、これでいいのか不安で不安で。

だから吾妻先生の元で安定して働けるのがとても有り難かったのを憶えています。

その頃は白泉社の忘年会や新年会にも呼ばれるようになり、すると「吾妻先生のアシやってるんだって?」と人が寄ってくるようになります。

みやすのんき先生ともパーティーで知り合って話すようになり、そこでアシをしていた仁木ひろしさんと出会います。

みやす先生に「ハロウィンショー」というアンソロジー本に誘われたのもその頃だったかな。

「Shout!」という超能力少女の話でこれまた性的要素がひとつもなく人気がなかったです。

仁木さんの漫画がこれまたツボでしてね。

路地裏のごみ溜めに咲いた花みたいな女の子を描くんです。


彼が描くメカもまたヲタの痛いとこを突くチョイスがあって堪りませんでしたね。

そうなると「仁木さんが驚くような飛行機を出そう」とかなって張合いが出るんですね。

普通の漫画じゃつまらないですもんね。

吾妻さんとあまり関係ないですね。

でもこんな感じでどんどん世界が広がっていく感じがありました。

(尼で検索したら全集本ではなくコレクションでしたね。僕はもう永い年月が経って持っていません。表紙絵が懐かしいです。そうですこういう表紙絵だった…)

・吾妻先生の失踪

ある日……確か全集本の献本が届いた後の3月のある日だったと思うんですが、仕事場へ入ると白泉の編集Tさんが先生の机の前で呆然と立っています。

「田中君、吾妻先生がタバコを買いに行くと出て行ったきり帰ってこないんだよ」と言います。

「もう一時間以上になる」というので、なにか事故でもと心配になりました。

ちょうど『幕の内デスマッチ』の12回描く時だから1985年3月で間違ってないと思うんですよね。

(wikiにはなぜか最初の失踪が1989年とあります。なにか大人の事情でしょうか)

タバコを買いに行くというのは危険のサインだとTさん知らなかったのか。

すぐに溝呂木さんも来て慌てて夕方まで周辺を探しますが見つかりません。

そしてそれから半年間、吾妻先生は行方不明になります。

行方不明事件の当事者になった編集Tさんは僕の担当でもあったので、その前後で出し始めた白泉社の「メルティーレモン」という美少女アンソロジーの仕事で連絡は密でした。

なにが起こったのかよく分からず、まるで狐につままれたようで、後日奥さんが警察に捜索願を出したと聞いてもあまり実感が湧きませんでした。
『幕の内デスマッチ』の連載はそこで中断です、
そして二度と続きを描かれることはありませんでした。

というかなんでかがみさんに続いてこんなことが起きるんだという当惑でしょうね。

それも1年も待たずにですよ。
その後僕はなにをしていたのかな。
なにか直近の仕事をしていたんでしょうけど、自分の年表を失くしたので詳しくは思い出せません。

でも失踪からちょうど一ヶ月くらいしたある日、吾妻先生から突然電話が入ったのです。
びっくりしましたね。

「悪いけど保谷駅前にいるからちょっと来て」

先生はそっけないもんです。
でも急いで待ち合わせ場所に行くと、よく憶えています、先生は雲天の下グレーの薄っぺらいジャンパー姿でひとり立っていました。

相変わらずのムスっとした表情だけど、でも以前のような青白い顔じゃなく、少し日焼けしていましたね。

とりあえず元気そうで少しほっとしました。

しばらくして溝呂木さんも来て目についた居酒屋へ入りました。

先生はまずビールを頼むと「なんでも好きなもの注文して」といいます。

そしてテーブルの上に封筒をふたつ置きました。

中身は半年分の給料でした。

その時なにを話したかは正直あまり憶えていません。

いまどこにいるかは教えてくれず、駅前で別れてそれきりになりました。

当時は携帯電話もありませんから連絡先を確保しようもありません。

すぐに編集Tさんに報告したんだと思いますが記憶にないんですね。

当然吾妻さんも他の友人知人へは連絡は入れていたんだと思いますが、公式に発見されたのは半年後、たしか府中で警察に保護されたと編集Tさんから連絡がありました。

でも発見の一報を聞いてから仕事場に電話をしても出ることはなく、自宅の方へ電話しても奥さんが出るだけでした。

しかし吾妻先生が発見されたのと前後してコミコミ本誌で描くことになって事態が急変します。
忙しくて先生を気にする余裕もなくなってしまいました。
そのタイミングの悪さと言ったら…後悔してもし切れません。

その後吾妻先生から突然また電話を貰ったのは半年が経ってからになります。

それはまた違う話になるので、今回の吾妻さんを中心にした話はここまでにします。

先生が後に描いた『失踪日記』とかはあまりにも生々しくて読んでいませんし、始めての失踪がwikiなどで1989年とされている理由も分かりません。

なにかロリコン者にしか分からぬ暗号とかが含まれているのでしょうか。

ただどういう神経なのか、無償で原稿を頼んでくる同人誌に対して「あいつら唯の集りだよ」とつぶやいた吾妻さんは職業漫画家として真っ当だった、病んでいるのは周りだよと思わずにはいられません。

こんな長い話を最後まで読んでいただき有難うございました。

(了)


次回は月刊連載開始にともなう『地獄の季節』
そして吾妻先生からの電話とファンや出版社との関係、
1980年代のマイナー漫画業界にはびこった魑魅魍魎、
及び人間模様について詳しく書きます。

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(注1)全集本ではなくコレクションでした。

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