エルネスト・アンセルメにベートーベンは似合わないのか。

箱買いしたレコードのなかにエルネスト・アンセルメ指揮スイスロマンド管弦楽団の「シェラザード」がまざっていた。聴いてみると、絢爛とした演奏で、たしかアンセルメは「色彩の魔術師」とかいうあだなもつけられていたのはなっとくできる。派手で華麗な曲にあう音なのだ。
それが逆に、ベートーベンやバッハといった精神性をもとめる音楽にはそぐわないという評価もあった。
「レコード芸術」だったか、音楽評論家がアンセルメとスイスロマンドのベートーベンの交響曲のレコードを聴いて、怒りのあまり叩き割った、と書いていたのを読んだ記憶があるのだ。
表面的な音はきれいだが、それだけだ。ベートーベンの深い精神性がいっさい表現されていない。聴いていて皮相な演奏に怒りがこみあげてきて、叩き割った、というふうなことだった。
(と書いたのだが、レコ芸はレコード会社がスポンサーの雑誌で、評論家にレコードを叩き割るなどと書かせるはずもないか。わたしの勘違いで、なにかべつの媒体で読んだ可能性のほうが高いかな。評論家の名前などはまったく覚えていない。)
十代の私はその文章に影響されたと思う。そのご、アンセルメのレコードを買うことはほとんどなかった。

音楽の精神性とはなんだろうか。ベートーベンでよくいわれるのは、ドイツの指揮者フルトヴェングラーによる演奏だ。ベートーベンが表現したかった音楽の高みと深みをその指揮によって究めて、聴衆に圧倒的な感動をもたらす歴史上でも最高の指揮者だという評価がされている。
世界でもっとも稼いだ指揮者といわれるヘルベルト・フォン・カラヤンの指揮にはあまり精神性うんぬんの評価はされない。
その指揮者のもつ人生観や経験、学識、人柄などがすべて演奏に反映されるとして、同じ曲を振るときにも表現はかわる。表現がかわれば、聴衆のこころにとどく音もかわる。その結果、感動の深さや聴衆の音楽のうけとりかたに違いが生まれ、「素晴らしい演奏だった」「つまらない演奏だった」という評価がされるのだろう。
アンセルメの音が表面的だ、というのは、ベートーベンの音楽の深み、思想の深みを表現するためにふさわしい音をだしていない、という意味なのかもしれない。

アンセルメは数学者でもあった。数学者は世界のしくみ、真実を論理でときあかそうという思いを持つ人たちだろう。彼らに精神性が無縁であるとは思えない。
やはりじぶんの耳でアンセルメのベートーベンを一度は聴くべきなのかと思っている。

フナピーという方のブログにたまたま精神性についての一節があった。そう、音楽評論の世界ではだいたいこんな評価だったのだ。

吉田秀和はフルトヴェングラーについて「濃厚な官能性と、高い精神性と、その両方が一つに溶け合った魅力」と書いているし、許光俊は「かつて人々が「カラヤンの音楽には精神性が欠如している」と非難したのはまことに正しかった」と書いている。

©funapee


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