坂本直行と荒木石次郎。

北海道大学山岳部のアーカイブでこんなはがきを見つけた。

右のほうは差出人がわからないが、あて先は野崎牧場内の坂本直行だ。そして文章の書きだしが
「こちら今新緑のいい季節です」
とあるので、年譜とてらしあわせると時期がわかりそうだ。

昭和2年(1927年) (3月)直行、北海道帝国大学農学実科卒業。
(4月)直行、東京・田園調布の園芸会社へ就職。温室栽培の仕事をする。昭和4年(1929年) (春)直行、温室園芸の自営をめざすが、父・弥太郎から出資困難との連絡を受け、札幌に戻る
(秋)直行、十勝・広尾村で牧場を経営する野崎健之助から誘いの手紙を受け、野崎牧場で働き始める
昭和6年(1931年)(1月)弥太郎、龍馬の遺品を恩賜京都博物館(現・京都国立博物館)へ寄贈。(9月)満州事変勃発。
昭和7年(1932年) (3月)直行、相川修と楽古岳に積雪期初登頂。
昭和9年(1934年)(10月)直道(当時は南満州鉄道欧州事務所長)、パリで日仏交流雑誌『フランス・ジャポン』創刊。
昭和11年(1936年) (1月)直行、広尾・下野塚の民有未墾地25ヘクタールを手に入れて、入植。(3月)直行、石崎ツルと結婚

昭和4年の秋に坂本は野崎牧場ではたらきはじめた。そのあとの新緑の季節だから、昭和5年から10年にかけてのどの年かになる。昭和11年には広尾に土地を買って入植して、野崎牧場から離れている。
ということで5年の幅があるがこのあたりの年の春のはがきである。
(ただし、野崎牧場の後継であるエーデルワイスファームの沿革には、坂本が牧場にやってきたのは昭和5年とある。そうであれば昭和6年から10年にかけてとなる。)

左のはがきは、札幌の坂本に宛てられたもので、田園調布温室村の荒木石次郎という人物が送り主だ。ここでも年譜が役に立つ。昭和2年に田園調布の園芸会社に就職し、温室栽培の仕事をしているのだ。荒木は「スイートピーの父」といわれる園芸家で、荒木温室を経営していた。つまり、このはがきから坂本は荒木石次郎の会社に入ったのだろう、と推測できる。
坂本は昭和4年の春に会社を辞めて札幌に帰り、その年の秋には野崎牧場ではたらきはじめている。となると、はがきの文章にある「都の暮」「長い冬」は昭和4年から5年にかけての冬だろうか。坂本が野崎牧場に入ったことを知らずに、札幌の住所に送ったはがきだとかんがえれば矛盾はない。
(あるいはエーデルワイスファームの沿革にあるように昭和5年に牧場に行ったのなら、4年の冬は札幌にいたことになる)

荒木のはがきを読んでみる。文字がつぶれて、読めないところもあるのだが、わかる範囲で読んでみよう。

先日は結構な御林檎を御送り下さいまして有り難ふ。
御礼を申上げることさへしないで失礼してゐました。
何卒悪からず御海容下さい。
都の暮も緊縮?の氣分で一杯です。その影響か、生産過剰か?
カーネーションは廉価?です。ピースが長いステムの良い花が
初めから咲きます。ピースとシクラメンが良い相場?で取引されて
ゐます。
・・・の・・・・スープで長い夜、話の花が咲きます。
何れまた、・・・・・・

とまあ、読めないところが多すぎるが、ピースは「スイート・ピース」つまりいまでいうスイートピーのこと。これは荒木温室の広告でわかった。
緊縮の気分という箇所が正しければ、昭和4年秋にニューヨーク発の大恐慌がおき、日本でも財政緊縮が井上準之助蔵相によりすすめられた。まさにはがきの内容と照合している。

野崎牧場というのは、気がついた方もおられるかもしれないが、ノザキのコンビーフのあの野崎である。創業者の5男、健之助がひらいた牧場だった。
坂本は北大で健之助と友人になっており、一緒にはたらかないかと声をかけられたのだ。
坂本はそこで留萌近郊の寒村から家事手伝いにやってきていた石崎ツルという名前の少女とであう。のちに妻となる女性であった。

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