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あなたは幸せですか

昨日は、体調も戻ってきて、
すごい幸せを感じました。笑

私は、よく子供の頃、
「なんて幸せなんだろう」と思って、
1人でこっそり泣いたりするような子供でした。

えも言われぬほどの幸福感が、
時々やってきて、
気が遠くなるほど、
幸せだと感じるのです。

数年前、
私は、子供の頃から、
多幸症という病気だったんじゃないかと思ったりしてたんですが(爆)
調べてみると、
病気の場合は、
集中力がなく、多動で、行動が突発的で自信過剰なんだそう。

それはないので、病気だったわけではなさそう。

基本、多動っていうことはほとんどなく(笑)
どっちかっていうと、
オタク気質で、
一つのことずっとやり続ける系なので、
病的なものではない気がします。

私が、一つのことをやり続ける系なのは、
私の生き方に表れている気がします。

よく、いろいろなジャンルのことを
学んだりしている人を見かけますが、

私は、ヒプノしかしてないんです。
ずーっとヒプノしかしてない。

他の肩書きは何もないんです。

あれもこれも、っていうラインナップ何もない。
「本当にやりたいことは○○だけど、でもこれもやってます」
みたいなのがない人なんですよ。

そういう器用さって、まったく持ち合わせてないです。

なんでなのかっていうと、
多分、
幸せの感度が高いからかなって思います。

私は何をしてても、
「これは特別にすごいこと。」
「2度とない幸運」
とか思いやすいんです。笑

「これしかない」とか
「これが本当にすごいこと」とか
そうした特別感を、
常に目の前のものに抱きやすいんです。

中学生の時に、
数学の先生が
「生きててよかった!と思う回数が多い人は、本当に頭がいいんです」
と話されたことがあり、

「あ、それ私だ」って思いました。

その時、私って本当に頭がいいんだなって思いました。爆爆

溶けて消えそうなほどの幸せな瞬間が、
年に1度か2度起こる。

その理由って、
「優しい母と立派な父のもとに生まれて幸せだ」って
思うことだけなんです。

それだけなんです。


私は、目の前のことが、
すごく特別に感じられる系の人間なんですよ。

この親の元に生まれて幸せって、
小学生の低学年の頃から思っていたと思います。
そして、幸せすぎてこっそり泣いたりしていました。

たぶん、人生に、
これ以上の幸福感ってないんだと思います。

ここに真理の全てが内包しています。

私は、
この感覚だけを
今も、
人に伝え続けています。

誰もが、
何か欠乏感を抱え、
外に、外に、外に、
幸せを探しにいく。

けど、
本当は「ここ」に幸せはあるんです。

すでにここにあるんです。

どこにもよそに探しにいく必要なんかない。

これがわかった時、
本当の冒険ができます。


本当の冒険とは、
物理的にどっかにいくとか、
物理的にどこかの誰かを探しにいくとかではなくて、

もっと、本気の冒険です。

物理的に探したり、よそに探しに行ったりするのは、
たぶん、
本気の冒険じゃないんですよ。

欠乏感の埋め合わせというだけ。

欠乏感の埋め合わせは、
冒険じゃないんです。

ただ、穴を埋める作業であって、
意識は自分にしかない。
どこにも冒険なんかしにいってないんです。
ただ自分、自分、自分、
私をわかってくれ!!!って叫んで、
泣いて、
自分から一歩も外に出ていません。


欠乏感がない時、
意識を自分の感情の埋め合わせに使わないからこそ、

本当の探求に出ることができる。

よく、ブッタが家柄が良かったり、
マザーテレサが家柄が良かったり、
真理の探究者の家柄が良かったりするのって、

彼らは、別に本当に家柄がいいとかっていうよりも、
親を本気で肯定しているから、

だから家柄がいいことになってるんです。
家柄がいいっていう、現実を「いま」作り出してるんです。

私たちの意識は親をも作り出すので、
自分の認識によって、
親も状態も作り出す。

親をどうみるかが、
世界をどうみるかに全投影されているんですね。


親に対して欠乏感をもっていれば、
世界はどこまでいっても、
不完全に感じ、
何をしても、
どんな人にであっても、
相手に不満を抱きます。

そして、
どこかの誰かに、
次なるものをもとめていく。

でもどこまでいっても、
それは冒険ではなく、
欠乏感の埋め合わせでしかありません。

私は、
小学生の時から
年に数度訪れる
この、
えも言われぬ幸福感を、

人に伝え続ける仕事を、
しています。






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