見出し画像

今日も誰かが誰かを「無能だ」と罵る世界に生きている

「あいつは無能」「使えない」「役に立たない」といった言葉がこの社会に充満している。

それらの言葉は全ての人間たちに向けられていて、政治家、デモに参加する人たち、組織内の全ての成員、家族、とある店舗のスタッフと客、道行く人、ホームレス、テレビの向こうの芸能人、あるいはプロスポーツ選手、時にはアマチュアであっても、そして動物であっても、そして顔を知らぬインターネットの向こう側にいる人間たち、そして機械やAIであっても、あまねくすべての「物」は、知っている知らない関係なく誰かに無能扱いされているという事実が存在する。

「無能だ」(誰にとって?)
「使えない」(誰にとって?)
「役に立たない」(誰にとって?)

これらの言葉を発するとき、自分というものを忘れて、自分がそう感じたということを一般化してしまいがちである。おそらく、すべての答えは「自分にとって」だろう。部下は仕事ができないから、無能だ。しかし、部署を変えれば息を吹き返したように活躍しだす社員もいる。その無能ぶりはどこにいった? 部下を育成できなかったアナタが悪いのではないか? 旦那は炊事が全く苦手で役に立たない。しかし、別のところが秀でていれば分担をすればいいわけだし、給料が非常に良ければお金で食事の課題を解決するということも可能である。

私たちは対面している人間の全体像を知ることはできない。それは深い付き合いである家族であってもそうである。そんな深い間柄でも側面しか見えていないものなのに、少し話しただけで全てを捉えたような気になっている人間もいるわけだ。それでもって話を聞いてみると、ああ、確かに当たっているなあと思うこともあるだろうが、だいたいの場合はバーナム効果である。しっかり突き詰めて聞いてみると、ふんわりぼんやりしている。そもそも他人に対する評価などどうでもいいから話半分しか聞いていない。

どうでもいいけれど、面白いものでね、抽象度が高くて、誰でも使えるような言葉を並べられると、人々は簡単に騙されてしまうものなのだよ。語彙の広さは思考の広さであり、具体化できる想像力の広さにもなる。吾輩が独裁するなら、教育にメスを入れて言葉をもっと簡単にするよね。『1984年』(オーウェル作)のニュースピークのようにね。だから、言葉をこねくり回さない政治家は信頼できないのである。

さてさて、「無能だ」「使えない」「役に立たない」といった言葉は極めて主観的なのである。ところが私たちはココで躓いてしまう。この言葉を発したとき、自分がしているその蔑視はあくまでも一般的な考えに基づくものであって、自分のみが特別な感情を抱いているとは思っていないのである。

つまり、「(こいつは)自分にとって無能だ」ということを、「(こいつは)誰にとっても無能だ」と考えてしまっているのだ。自分の言う通りに動かず、自分に損害が出てしまったことについて「使えない」「無能だ」と思うのは自由である。ネガティブな感情を持つこともあるだろう。アンガーマネジメントでも怒りの感情は沸くことは認めているし、その感情の中に「この無能め!」という想いもめぐるだろう。それは仕方ない。相手にぶつけなければいいだけの話である。

ところが「あいつは無能だ」というのを喧伝してしまう人がいる。これが手に負えない。この時に帯びているのは、「俺はあいつが無能だと思う」という個人的な主観としての「無能さ」ではなく、同意の強い要求である。そこで「いえ、無能じゃないですよ」と一言言える人間がいればいいのだが、その人間をよく知らない限り、そんなことは言えない。具体的な「無能ではない点」をあげないといけなくなるが、そこまでよく知らないことがほとんどだ。そしてそのまま「無能だ」と言われた人間は、全員一致で「無能だ」という認識に洗脳されていくのである。

そして、「無能だ」と言った人間も別のシーンにおいて誰かから「無能だ」「役に立たない」「使えない」と言われているのである。自分よりも目上の人、自分をお世話している人、自分がお世話している人、ネット空間の向こう側にいる人、誰かが今日もあなたを「役に立たない」「使えない」と言っている。

まあ普通に考えればそういう風に罵られるのは嫌だが、仮に自分が「こいつ役に立たない」と思ったことがあるなら、その呪いの言葉は自分に向けられているということを認識していたほうがいいのである。自分だけが悪口を吐くことを許されているわけがない。あなたが誰かに向けて発した言葉は、すべてはあなたに向けられている。

今日も、明日も、明後日も、この地球上では「無能だ」「使えない」という言葉は飛び交っている。この世界には反省の言葉を持たない民族が存在するが(これは奥野克巳氏の『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』に詳しい)、仮に誰かを罵るような言葉がない民族がいるのなら、どういう風な社会を構築しているのか気になるところだ。

という風に主観だの多面性だのバーナム効果だの呪いだのという文章を長々と書き連ねてきたわけだが、社会に溶け込んだ人間は自己を一般化したがり、主観なのにあたかも客観のように振る舞いながら人を「無能だ」と罵っておるのだよ、と考えている谷間こそ、主観の権化ではないかというわけである。ミイラ取りがミイラになるとはこのことだネ、アーコリャコリャ。ただ、「あいつは無能だ」で全てを収める前に、良い点悪い点を全部洗い出してちゃんと人を評価したいものだね、特に選挙においてはね。

こうして谷間は「使えないクソブロガー」「本当の無能派バカ野郎」などと数年にわたり罵られたのであった。めでたしめでたし。

この記事が参加している募集

推薦図書

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?