やがて孵る 辻聡之

角川短歌賞の発表号を読んだ。
時間があるときに、パラパラと読んで、選考座談会もパラパラと読んで。
夕食を作ってるときに、辻さんの表題の連作を読んで、ああなんかいいなと思ったので、ちょっと何か書いておきたくなった。

この連作、東さん以外の方はあまり評価してないのだけど、私は好きだ。東さんと他の選考委員の方の意見がすれ違ってしまって、なんとなく東さんの言いたいことが伝わってないように思ったのは私だけだろうか。

私は、概ね東さんと同じ感想を持った。
「自分も行くあてがないし、みんななにか宙に浮いているような存在になっている感じが、その中に悲しさみたいなものが出て来て、姪が生まれるということを芯にして自分を含めた家族の人生について考えている。」
座談会のなかの東さんの言葉。

家族みんなが抱える行き止まり感や悲しさみたいなものがありつつ、日常はあって、でもやっぱり悲しさは消えなくて。
東さんが何度か自虐的という言葉を使っていたけれど、たしかにそんな印象を受ける。
これはそれぞれの言葉のイメージの違いかもしれないけど、自虐というのはもうちょっとやけくそな感じが私はしてて、それよりももっと傷口をずっと触って眺めてるようなつらさを伴う感じがした。

一番気になった短歌は
年古りて傷つき方の下手になる父には父の〈祖父〉という夢

これはちょっとグッときてしまった。
おじいちゃんになりたかった父。でも、弟は離婚しちゃって、孫娘とも会えなくておじいちゃんになりきれなかった父。
そこに、パラサイトシングルの自分のつらさもある。
自分も父の夢をかなえてあげられる存在なのに、今はそれができない。その父の傷つきに主体も傷ついている。そして、パラサイトシングルだからこそ、そこを見て見ぬ振りができなかった。日々会う父母が、どんな思いでいるのか痛いほどわかったのだと思う。この連作の全体にあるつらさのようなものって、これなんじゃないだろうか。

「やがて孵るものはおそろし」
孵るものはおそろしいのだ。
命の不可逆性みたいなもの。産まれたら育っていく。それをなかったことにはできない。ないままだったら、誰も傷ついたりしなかったのに、孵ってしまったから見えなかった傷も見えてきてしまった。

最後の「ださいTシャツ」は自分への苛立ちだろう。そういう言葉で表現して、自分を傷つけてしまいたくなる気持ち。そういう言葉を使って何かをぶつけたくなる気持ちはとてもよくわかる。

全然まとまりがなかったな。これは今の時代の家族や親子関係をぼうっとうつしだす良い連作だと思った。

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