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宿場町、お金が落ちていた道、遊郭、ありふれた地方の特別な道たち

ありふれた地方のありふれた生活に、道はある。

「日常を送る場所」「仕事をする場所」「遊ぶ場所」を人が行き来するため、道ができる。

道は名付けられる。「国道3号線」や「環八」など、道が作られた時、情報整理するため名付けられることがほとんどだが「何故、こんな名前がついているのか?」と気になる道がある。

「スペイン坂」「渡辺通り」など、インターネットで調べれば、由来がすぐに分かる道がほとんどだが、ありふれた地方には、インターネットで調べても由来が分からない道が沢山ある。

道には歴史がある。道の歴史には人が関わっている。ありふれた人たちが、ありふれた道の歴史を作っている。

そこには特別な物語があるに違いない。

2013年の夏、僕たちは、田川にある道の特別な物語を知るため、田川市にある猪膝街道、百円坂、栄町の道を取材した。

猪膝街道(いのひざかいどう)の景色を観た

猪膝街道にはとても長い歴史があるという。

田川市猪位金にあるこの街道は元々宿場町だった「猪膝」という街を南北に貫く道だ。

猪膝街道のスタート地点には古い石柱がある。道幅は、とても狭い。かろうじて車が離合できるくらいの広さである。

この猪膝街道を取材するにあたって、下調べしたところ、道中には、ヤマトタケルノミコトが太刀を洗ったとされる井戸があり、宿場町であった頃の街並みをイラストで再現した看板があるらしい

きっと長い歴史がある場所なのだろう。

現在は、数件の商店を残すのみで、その他は、一般住宅が並んでいる。

それは田舎によくある風景だ。

神話の町から宿場町へ。そして普通の地域になり、今ではありふれた少子高齢化の地域に。

下調べ以上のことを取材しようと、僕たちは、北側にある古い石柱から猪膝街道に入り、南に向かって歩いていった。

ヤマトタケルが刀を洗ったとされる井戸、宿場町をイラストで再現した看板、宿場町だった頃からある醤油屋さん、潰れたタバコ屋さん、民家の軒先で楽しそうにお話をしているおばちゃん達。

そこにいる人たちや、すれ違う人たちは、気軽に話をしてくれて、あたたかい人達ばかりだった。

この猪膝街道は、長い歴史があるらしい。しかし、ここで、下調べ以上の何かを見つけることはできなかった。

ここは、ありふれた「少子高齢化の地域」の一つに過ぎないのかもしれない、そう思った。

しばらく歩いて行くと、街道の東にある小高い山の上に、古いお寺を発見した。

和尚が居たら何かおもしろい話が聞けるかもしれない、僕らはそう考えた。

小高い山の上に向かう急な階段を、しばらく登っていくと、お寺らしきところに辿り着いた。

しかし、そこには、和尚はおろか誰一人いなかった。

庭や本堂は少し荒廃した様子で、もしかしたら、お寺の廃墟なのかもしれない。僕らが、諦めて帰ろうとしたその時、小高いこの場所から猪膝街道のほとんど全てが見渡せることに気づいた。

この場所から望むこの街道は、両端に家が並び、確かに宿場町の構造をしていた。

それは、馬や飛脚が旅人を運んでいたこと、活気にあふれた商店がたくさんあったこと、そして、狭い通りに所狭しと、たくさんの人が歩いていたことを思い起こさせるに足る景色であった。

急な階段を降りる途中、手入れの行き届いていない庭木から名前も知らない白い大きな華が、その景色を遮るように、でかでかと咲いていたのが印象的だった。

百円坂の思い出

初めて妻と一緒に百円坂を登り、祖母が眠る納骨堂に向かった時、私は「何故、百円坂っち言うのか知っちょう?」と妻に話しかけた。

これは昔、母が私に向けて尋ねた質問でもある。

妻は当時の私と同じように「わからん。なんで?」と答えた。

そして、私は当時の母と同様に自慢げに話し始めた。

「炭坑で人がいっぱいおった頃、この辺にはお金持ちが住んじょったんよ。だき、坂に百円が落ちちょっても、どうってことないような人達が住んじょったき、百円坂っち呼ばれるようになったんよ。」

炭坑時代、百円坂には炭坑会社の重役が住んでいたそうだ。

百円坂は田川市にある地区の名前だ。一帯が丘になっていて、地区のほとんどは坂であり、その坂に住宅が立ち並んでいる。

明治時代以降、田川は炭坑の街として繁栄した。それは、石炭需要が高まり、石炭が採れる田川に資本が集まったからだ。

しかし、昭和45年の閉山以降、資本は田川を離れた。そして、人が離れ、衰退の一途を辿り、今に至っている。

時は流れ、平成初期、母と一緒に訪れた百円坂は、誰も住んでいない古い家や炭坑住宅が並び、とても寂しい感じがした。

坂道を登り、私と母は祖母の納骨堂へ向かった。

私は、道中、百円玉が落ちていないか、確認したが、やはり何も落ちていなかった。

それから、さらに時は流れ、現在、百円坂にあった空き家や炭坑住宅は壊され、整地され、そこには新しいデザインの大きな家が次々と建てられている。

炭坑が閉山して40年以上が経過した、現在の百円坂は、炭坑時代と同じように、高級住宅街のような感じがある。

百円坂の取材中、私は、ふと、百円玉が落ちていないか、顔を下げ、歩きながら路面を探してみた。やはり何も落ちてはいなかった。

顔を上げ、あたりを見渡すと、洗練された住宅が並び、建築中の大きな家がいくつもあった。

この場所は、時代が変わっても、田川の人を惹きつける魅力があるのかもしれない。

炭坑夫たちは栄町に遊びに行ったのだろう

栄町は周囲を丘に囲まれている。

北の丘には田川小学校と田川市役所、西の丘には田川警察署、南の丘には二本煙突。

司法と行政と教育と田川のシンボルに囲まれたこの栄町は炭坑時代、遊郭があった。当時の栄町は、炭坑夫達の遊び場だった。

かつて、炭坑当時をよく知る方に取材をした時「栄町の遊郭は国で認められていた」と言っていた。本当かどうかはわからない。

しかし、事実として、栄町には遊郭があった。

栄町の遊郭には他の地方から沢山の女性が出稼ぎに来ていた。炭坑夫たちは命懸けの仕事が終わると、酒を飲み、栄町に遊びに出かけた。

しかし、炭坑が閉山すると、炭坑夫たちは田川から居なくなり、遊郭も無くなってしまった。

現在も栄町には、遊郭のような構造を持った家がいくつか残っている。

目を閉じると、当時、炭坑夫たちが遊んだ栄町の光景が浮かんでくる。

遊郭があったこと、閉山と一緒にそれがなくなったことは、暗い歴史かもしれない。

しかし、栄町の通りに立ち、この町並みを見て、頭の中に呼び起こされる、べらぼうに酔っ払った炭坑夫がフラフラと歩き、それを招き入れる遊郭の光景を、私は、いつまでも忘れないでおこうと思った。

(2013年9月に発行「ネゴトヤ新聞vol.1」より)

取材:炭坑夫の寝言

写真:長野聡史

編集/デザイン:佐土嶋 洋佳

イラスト:マルヤマ モモコ

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