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褐色細胞腫闘病記 第33回「夫の嘘と修羅の手」

「全て調べさせてもらったんだけど」

私は野乃子と義父が寝静まった深夜、夫とリビングルームで向かい合う。

「あなた、本当の給料はこの額よね。そして私に渡しているのはこの額。差額はすべてサラ金で借りているわよね」
「・・・・・」
「総額いくら借りてるの。私の計算だと180万くらいかしら」
「・・・・・」
「でも安心して。私は差額は遣っていない。こんなこともあるかと思って確保しておいたわ」
「・・・・・」
「なんで黙ってるの。まず、どうしてこんなことをしたか教えてほしいんだけど」
「全部遣ってなかったのか」
「当たり前じゃない。どこから出たかわからないお金なんて怖くて遣えないわ」
「なんで今まで俺に言わなかった」
「タイミングを見ていたし、いつか話してくれると思っていた」
「・・・・・」

夫は、悔しそうな顔をしている。肩で息をしている。ふうふう、はあはあ、息遣いが荒い。
なんなんだその顔は。何を悔しいというんだろう。
「お前は稼げない男は価値がないって言いたかったんじゃないのか」
「何を言ってるの。いつそんなこと私が言ったの」
「不自由ない暮らしをさせてやっただろう」
「そうね。でも、それは私の節約があったからでもあるわ」
「・・・・・」
何か言ったらどうなの。私は次第にイライラしてくる。

「それで、今、全部でいくら借金があるの」
「280万」
「よくもまあ…わかった。明細ここにすべて出して」

私は夫がおずおずと差し出してきた複数のサラ金の明細を手に取る。
計算したら330万もある。
「50万多いけど」
「え、そうだった?」
「覚えてないの。あなた、いくら借りたか覚えてないままだったの」
私は失望していた。こんな大事なことをなんでちゃんと把握していないんだ。いったい何に使ったんだ。

「それと、女性と一緒にキスしてたって言う目撃談が多数耳に入ってる」
「見間違いだろうが」
「パチンコを・・・」
「それは大丈夫、やめる、明日から」
「なんでそんなくだらないことをやりつづけるのよ」
「・・・・・」
「都合悪いことだけ黙るの、やめてよっ!」

私はついに怒鳴る。
目の前にいる男は本当に私が愛した人なのか。わからなくなる。
「今回は野乃子のために、目をつむる。私が独身時代に貯めた大事な貯金で支払う。でも、もうこの先はない。こんどこんなことをしたら離婚です」
「わかった。約束する」

夫はしおらしく俯いている。
しかし「早くこの話終わんねえかな」と思っているのがありありと見て取れる。

その顔を見て、私は、寸でのところで堰き止めていた激烈な怒りを急にコントロールできなくなる。一気に何かが壊れる音がする。
気づいたら椅子を蹴っ飛ばしていた。
「ざけんなっ! 馬鹿にすんなっ!  なんだその顔はっ! 大体、ハワイでの結婚費用もすべて私が出したじゃない。婚約指輪も "後で払うから"って言って私に買わせたよね。それだけじゃないわ。結婚指輪だって、結婚後にクレジットの請求が来てたよね? あなた、一言 "払っといて" って言ったっきりじゃない」
「でも、もう結婚したら二人の借金は二人のものだろ」

ここで、私の怒りは更に沸騰する。
「よくもまあ…よくも…、いけしゃあしゃあとそんなことが言えるわね。アンタの根性、腐りきってるわ」
私の心の中に、真っ赤なマグマが滾る。
どうやってこの目の前の男を屈服させようか。もうそれしか頭にない。

「ね、それ、"結婚詐欺してたら間違って結婚しちゃった" ってバージョン? それは珍しいし新しいわねぇ。さっさと騙して逃げてくれたほうがずーっと良かったのに。あなた、詐欺にしちゃヘタクソすぎるわ。あっはははは」

こんなことを言われても、彼は、黙っている。
否定も肯定もしない。

「とにかく、婚約とか結婚とか、こういう大切な節目節目をきちんと出来ないのって、一生恨まれるし一生文句言われたって仕方がないことよ。あなたは私の親には全部自分でお金出したって言ってるそうじゃない。本当に最低よっ!!!」

私は、わななく。ぶるぶると全身が震える。はあはあと口で息をしながら大きな声で怒鳴りつづけている。

ああ、なんで病気を克服して生きることを選んで、こんなくだらないことで夫を罵倒しているんだろう。

怒りをぶつけるのは、とても疲れる。疲れるが、どうしても発散せずにいられない。
私の病気はアドレナリンが過剰に出る病気。そこへ来て耐え難い怒りが加わると、さらに暴発を招く。コントロールが上手くいかない。
もともと過剰なアドレナリンがさらに増すわけだから、高じると手が出てしまうこともある。

「黙ってちゃわかんねぇんだよ、この詐欺野郎!」
私は夫の横っ面を思いっきり平手打ちする。
信じられない。私は初めて人を殴った。
でも、その行為は、ごく自然だった。その流れの中では、当然の行為のように思えた。

それに、信じられないが、私は人を初めて殴ったことの快感に感動していた。ああ、なんて気持ちがいいんだろう。
思いきり人を殴るってこんなに爽快なのか。知らなかった未知の感情だ。

私の奥から、どんどん分泌される怒りのホルモン。
アドレナリン、ドーパミン、ノルアドレナリン、3種の神器が私をどんどん鬼に、修羅に変えていく。
殺人者って、本当に気持ちよくて人を殺すんだろうな、とふと思う。

でも、夫は主治医に聞かされていた。
「三島さんのカテコラミンは活発です。発作的に怒りのコントロールを欠く時があります。そんな時は決して対抗してはいけません。病気の悪化を招くだけです、そんな時は彼女の鎮静だけを図ってください」

夫は無抵抗で私の平手を受ける。
私の手が殴り疲れたころ、私は反省し始める。

こんな自分じゃなかったのに。
いや、本来の自分が出ただけなんだろうか。
よくわからない。わからない。一体どっちが自分のほんとうなんだ。
いずれにしろ、配偶者を殴りつづけるのというのは、ありえない。
私が圧倒的に、良くない。

その後、いきなりひどい動悸がして、目の前がうわうわと揺れる。目の前が昏くなり失神し、病院に運ばれ、鎮静剤を打たれて明け方帰宅した。
鎮静剤はかなり強めのものだろう。一気に心が平らかになる。
怒りのマグマに全身呑みこまれていたさっきまでの私が嘘のようだ。
あれはいったいどこから来た私だったんだろう。

翌朝、夫は、念書を書いて私に見せた。
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1.「これ以上借金はしません。した場合、離婚に応じます」
2.「こうこに借りたお金は必ず返します」
3.「パチンコは一切もうやりません。カウンセリングにも行きます」」
4.「ささいなことも、嘘はつきません」
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「これでいいだろ。俺も悪かった。女とは別れたから。悪かった」

夫は、私の豹変ぶりに心底驚いていた。
しばらくの間は帰宅も早く、パチンコ屋のにおいもしなくなった。
野乃子はパパが早く帰ってくるようになって嬉しそうだ。
これで表面上は家族の形が整った。

でも。

私の心はもう、彼を信じることが全く出来なくなっていた。

夫が義父に「明日の朝飯の納豆切らしてるんだ、めかぶはあるし、鮭あるから」と朝飯の機嫌を取っている。
その朝飯はいったい誰が作っているんだよ、と言いたかったが私はぐっと黙る。
とりあえず、ギャンブル依存の治療は協力していかなければならない。
私が通っていた精神科医に相談してみよう。

明後日は久しぶりに棚沢先生と会える。楽しみだ。
いろんなことを話さなければ。
芳河さんのこと。自分の未来のこと。そして、途中でいなくなった北野先生のこと。卵巣畸形嚢腫のこと。いろいろ、いろいろ、きちんと話して今後の治療につなげていかなければ。


結婚したころ、私はスマートな彼の身のこなしが好きだった。

顔を見ているだけでほっこりした。

俺に任せておけば大丈夫さ、そんな言葉に酔いしれていた。

なんて愚かだ。なんて稚拙な自分なんだ。

仕事をしよう。経済的にもそのほうがいい。
私は実家の母に相談する。すると、母親がいい顔をしない。
そうか、母からも私は歓迎されていないのか。

どうしたらいいんだろう。

私は夫の頬を殴った自分の右手をずっと、じっと見つめていた。

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※ 全ての褐色細胞腫の患者さんが私のような強い怒り発作を呈するということではありません。
この病気の症状の出現の様態は本当に個人差が大きく、同じ病気とは思えないほど症状が違うことも珍しくありません。

なお、現在の私のカテコラミンの数値は低くなり、このような激烈な発作を起こすことは稀になりました。


よろしければ、サポートをお願いします。いただいたご芳志は、治療のために遣わせていただきます。