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褐色細胞腫闘病記 第39回「新しい出会い」

私には、夫の葬儀の時の記憶がない。

喪服を母に着せてもらったこと、密葬のため急いで火葬したこと。
焼いた骨を抱いたときの熱さと、野乃子の俯いた白い顔。
それ以外、何も憶えていない。

私は、生きなくてはならなかった。
夫が残した莫大な借金は、皮肉にも弱った私を生かす原動力となった。
しかし、フラッシュバックによる苦しみは変わらず、私はいっそ全てを擲(なげう)ち、遁走していきたくなる衝動をほぼ毎日抑えていた。

私がほかの自死遺族と決定的に違うところがある。
それは、自死した夫を全く悼むことができず、滾る憎悪をもてあまし、線香さえまともにあげられない自分を責め続けているところだ。

悪性褐色細胞腫にかかり、かつて私は仲間を求めてネットを彷徨った。その患者の数はとても少なかったけれど、同病仲間とは稀少病仲間としての連帯意識があり、病気の苦しみやつらさの共感もあった。
気の合わない人もいたけれど、それでも、患者同士で集えることは、それだけで安心した。

私は救いを求めて、街の自死遺族の会に参加した。
だが、その時の違和感、疎外感はとても言葉で言い表せるものではない。
自死遺族はこんなにも日本中に多くいるのに誰一人とも連帯することができなかった。
なぜなら私は、完全に異端だった。
自死遺族はただひたすら「愛しいあの人」を恋しがり、叫び求め、もう一度会いたいと乞う人たちばかり。
私の居場所は、そのどこにもなかったのだ。

なんとか息をしながら、ようよう2年半ほど経ったある日、私は唐突に思いだした。
「そういえば以前書くことで救われた自分がいたんじゃなかったか」
そうだ、そうだった。
再び、書いてみようか。なんでもいい、とにかくこの今の苦しみから少しでも逃れられたらそれでいい。そんな気持ちで私はおそるおそるブログを立ち上げてみた。

最初は単に苦しさを吐き出すためだけのブログだった。
その時の私にはもうマトモな文章は書けなかったし、読者なんかどうでもいい、別に書ければ読者なんか要らない、それでもいいとにかく救われたい。そんな状態だった。

しかし、やがて読者が増えるにつれ「アンタみたいな死者を叩くような遺族は人間として終わっている」「なんでアンタみたいな鬼畜がランキングで1位を獲るのかわからない」「第一発見者なのに救命措置もせず逃げるなんて、あなたは人殺しだ」というコメントが多くなった。
その時のブログのタイトルは「勿忘草は要らない」
タイトルからして不謹慎だ、という声が上がり、私はとうとう悲鳴を上げた。再び襲ってくる耐え切れない孤独感。私は息が出来ず喘いでいた。

そんな時だった。
どういう経緯だったかはよく憶えていない。
ある日、私は性暴力に遭った過去を持ち、さまざまなトラウマを抱え、フラッシュバックと絶えず闘い続けている写真家、にのみやさをりさんの文章にたまたま出会った。
彼女の書く文章は、本当に清らかだった。

彼女は、20代の頃の強姦被害のショックで世界がモノクロームにしか見えなくなった。そのことがきっかけで写真を撮るようになり、やがて写真が彼女を救った。それはまるで、私が書くことで救われていたのと同じだった。

写真家の彼女だが、私はまずその怜悧で清澄な文章に惹かれ、食い入るように貪り読んだ。書かれている内容はハードなのに、不思議と心に清風が吹くような、そんな美しい文章。
すぐさま「声を聴かせて」というタイトルの彼女の本を買い求めた。
性被害に遭ったひとたちの声が綴られているその本は、私の心を柔らかく慰撫し、第一発見者となって以来、私は初めて他人と深く繋がった気がした。

私は強姦被害者ではない。
なのに誰からも得られなかった共感を、この本から、そしてにのみやさんの言葉から自然に、流れるように得ることが出来た。
その肉体を切り裂かれ魂を殺され、心の奥から赤黒い血を流し続けている人たちの痛みと、私の抱える痛みが同じだなどとは、とても言えない。きっとそれは不謹慎で、とても失礼なことだ。
私は夫の自死の第一発見者で、とてもショックではあったけれど、自分の身体に傷を負ったわけではない。でも、彼女は自分の身体を一方的な暴力によって傷つけられた。全く傷の種類は違うはずなのに、私は初めて〈よりどころ〉を与えてもらったのだ。

失礼かと思ったが、思い切ってにのみやさんにメールを投げてみた。
そしたら、なんと偶然にも彼女も私のブログを知ってくれていた。夢のようだった。以来、一気に私たちは意気投合した。
彼女は言葉を重ねなくても、私の心の傷を誰よりも的確に掬い取ってくれた。彼女もまた、被害者仲間を、友人を、自死で失っていたのだ。
彼女は今でも被害による解離症状とPTSDと闘っているが、いつもまっすぐに、正直に生きる潔い人だ。

私はそれから毎日ブログを書いた。書きながら、心を浄化させていった。
少しずつ、少しずつ、時の薬と相まって、私の心は凪ぎ、フラッシュバックの発作や解離症状が治まっていった。

ようよう動けるようになった私は仕事を増やした。
朝から晩まで働いた。どんな仕事でもやった。
まず200万円が貯まり、私は借金を返しに、夫の先輩に会いに行った。

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冒頭写真 by にのみやさをり
Saori NINOMIYA  photo gallery 「my eyes,my mind」
写真家。随筆家。1970年6月5日東京生まれ横浜育ち。個展「あの場所から」「幻霧景」「鎮魂景」「黎明歌」「SAWORI」等を開催。写文集「声を聴かせて〜性犯罪被害と共に」(窓社刊)

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