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羽生結弦『GIFT』鑑賞記 ②開演40分前の危機

【前回①はこちらから】

- ショーが始まってからトイレに立つ ―
ファンとして、マナーの基本として、やはりこれだけは絶対避けたいものである。入念な排泄計画、これも大事な儀式のひとつだ。

「トイレを我慢するには水分摂取はゼリー飲料で」
Twitterで得た情報。私はそれを信じて3袋のウィダーinゼリーを持ってきていた。早々にトイレを済ませ、コンコースの壁に寄りかかり、ちゅうちゅうと音を立てエネルギー補給する。会場内は予想に反して暑い。本当なら喉を鳴らして水分を一気飲みしたいところだ。少し悩んだが、もう1袋行っとくかと別の味のウィダーを取り出す。ちゅうちゅうちゅう…ああ、美味しい。

思えば北関東からここまでまっすぐ来たんだもんな。なんだかお腹空いたな。そうだ、ソイジョイ持ってきたよな。これも食べちゃおうっと♪
今思えばこれがまずかった。完全に誤算だった。
私は普段、薬の副作用で便秘になりがちなので、弱い下剤を服用している。さすがにこの日は下剤の量をかなり減らしたが、いろいろ緊張していたんだろう、どうにも腹具合が怪しくなってきた。確かに水分を摂らないと尿は出にくくなるが、ウィダー2袋一気飲み+ソイジョイ一気食いにより、私は今まさに別の魔物を召喚しようとしていた。

開演まであと40分。間に合うだろうか。まさかこんなところで絶対に漏らすわけにはいかない。羽生結弦が今まさにおわしますこの聖地・東京ドームで、それだけは、それだけはダメだ。だが、もうどのトイレを見ても長蛇どころではない列が。
「女子トイレ、今から並んでも開演には間に合いませ~ん!!」
警備員の非情な大声が響き渡るコンコース。
いや、ダメだ。黙れ。私はここで諦めるわけにはいかないんだ。死んでも間に合わせないといかん。

私は走った。猛然と走った。
ドームの2階にも上がった。ぐるぐる回った。少しでもすいているトイレはどこ。でも、どこも並んでいる。ああ、どうしたらいい。どうしたらいいの。お腹が痛い。ああ、こんなに焦って走り回ったら、あああ、心臓が苦しい。はあ、はあ、はあ、はあ。苦しい。そうだった、私は心臓病持ちじゃなかったか。最近の調子の良さで、すっかり忘れていた。お願い、誰か。助けて。どこかに座りたい。動悸が止まらない。ああ、ついに不整脈が始まってしまった。万事休す。

・・・そうだ、薬を。あっ、薬は席に置いてきてしまった。どうしよう。倒れたら、どうしよう。もうじき開演だ。ここで倒れるなんて絶対いやだ。せっかくここまで来たのに。でもどうしたらいいの。それに第一私、今、どこにいるの。まったくわからない。もうひとりで席に戻れるわけがない。
絶望に苛まれ、そして魔物に責められ遂に私はその場でうずくまった。
もうダメかもしれない。

その時だった。
「大丈夫ですか。ご気分すぐれませんか」
後ろから声がする。
振り向くと、ドームの警備員だ。彼は私のバッグについていた赤いヘルプマークをじっと見ている。
ああ、そうだった。私は今日、これを付けていたんだった。
警備員に後光が差して見える。ああ、助かったかもしれない。
「あの、トイレに行きたいんですが、あの」
警備員のお兄さんは、ヘルプマークをバッグに付け、異様に着ぶくれたダルマ婆を見て私をストーマ患者と勘違いしたのだろうか。
「大丈夫ですか。患者様専用のトイレでしたら比較的空いています。こちらへどうぞ。」
ここで正直に心臓発作ですと言えば有無を言わせず医務室に連れていかれるだろう。それだけは御免だ。私は黙ってお腹をさすった。

優しく案内されたそこには、ヘルプマークを着けた人ばかりが3人並んでいる、一般の人とは別の色のドアのトイレだ。3人は私の顔色が尋常ではないことを悟ったのか「お先にどうぞ」と譲ってくれた。いろいろ切羽詰まっていた私はご好意に甘えさせてもらうことにした。
その障害者用トイレにはあらゆる病気や障害者に配慮された設備が整い、トイレにしてはじゅうぶんな広さと清潔さを保っている。なにやらいい香りすらする。
便座に座って、ひと息。用を足してから入念に手を洗う。そしてお守りのブレスレットを握る。少しずつ心臓の鼓動が整うのがわかる。ああ、よかった。これなら大丈夫そうだ。ああ、私、本当に生きていてよかった。人間、一人では生きていけないのね。・・・や、違う。トイレ内でひとり愉悦に浸り感銘してどうするねん。羽生結弦のショーはこれからじゃないか。

順番を譲ってくれた方々にしっかり頭を下げ、警備員に自分の席まで案内してもらう。どうやらかなり走って遠くまで来てしまったようだった。東京ドームって本当に広いんだなと思いながら、子供のように警備員に連れられる自分を恥じる。
「大丈夫ですか、ご気分悪くなったら会場内には看護師が常駐していますのでいつでもお申し付けくださいね」と優しく席まで誘導される。本当に申し訳ない。ドームの係員の行き届いた社員教育に感嘆しながら、深く深く頭を下げる。

席に着く。開演5分前だ。両隣の人は若い人のようだ。深呼吸しながら少ない水で薬を飲み、静かに目を閉じる。もうウィダーは飲まんぞ。
さあ、いよいよだ。現実の、生の羽生結弦が、私の視界に映るんだ。

③に続く

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