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これからの生活のたのしみ展は(永田泰大)

5日間にわたる、生活のたのしみ展が終わった。

最後の原稿だから、すっきりと気持ちのいい、ぱぁっと目の前が明るくなるようなことを書いて終わりにしたいのだけれど、どうやらややこしい話をはじめようとしている。おい、それ最後にする話じゃねぇだろ、と自分でわかるのだけれど、振り払っても静電気でくっついたビニールのかけらのように離れないから、いったん書いてみる。

思っているのは、不公平についてのことである。

おもしろいこととか、たのしいことは、不公平の要素をどうしても含むのではないかとぼくは思う。

たとえば、いいものができたとき、それがいいものであればあるほど、たくさんの人が欲しがる。しかし、つくることができるいいものの数には、必ず限りがある(ほんとはどんな商品にだって限りがあるのだけれど)。手に入れた人と、手に入れられなかった人がいる。それを不公平だということもできる。同じ構造で、おいしいものがおいしければおいしいほど、不公平が生まれる。すてきなものができればできるほど、不公平が生まれる。心地のいいものが見つかれば見つかるほど、心地のよくない不公平というものが生まれてしまう。

ある場所にいいものをたくさん集めたとき、その場所を不公平の集合ということができるかもしれない。あくまでも、そういうふうに無理矢理いえば、ということではあるけれど。

ほぼ日は、いいものをつくっていると思う。ここはnoteというほぼ日とは違う場所なので、初日に書いたように、いつもは表現することのない自信や自負も普段よりちょっと多めに書くことができる。そう、ほぼ日はいいものをつくったり、いい人を呼んできたり、いい時間をつくっていると思う。「不公平の法則」にしたがっていえば、年々、ほぼ日の「不公平指数」は高まっている。

にもかかわらず、たとえば不公平の集合であるはずの生活のたのしみ展は、とてもたくさんのお客さんによろこんでいただけている。

なぜそれが矛盾しないかというと、これも初日にぼくが書いたことだけど、お客さんがいいからだ。もっと正確にいえば、ほぼ日はお客さんとのいい関係を、いいものをつくることと両立してつくり続けているからだ。重要なことだからくり返そう。ほぼ日は、いいものをつくると同時に、お客さんとのいい関係をつくり続けている。それで、いいものを、いいお客さんが買っていってくれる。だから、永田泰大の提唱する「不公平の法則」は成り立たない。

それで、ぼくが、生活のたのしみ展のすばらしい5日間が終わったときにしみじみ思うのは、生活のたのしみ展はこれからどうなっていくのだろう、ということである。

生活のたのしみ展は、きっと回数を重ね、規模を大きくする。そういうふうに進んでいきたいとぼくらは思っている。あえて規模やコンセプトを絞ったこともやっていくと思うけど、基本的には、少しずつ階段をのぼっていきたいとぼくらは思っている。

そのためには、いいものをもっとつくり、いい人たちともっと出会い、いい時間をもっとつくらなくてはいけない。それと同時に、もっとたくさんの人といい関係をつくっていかなければならない。生活のたのしみ展が大きくなるということは、どこかに広い場所が借りられたらいいということではないのだ。

そして話は最初に戻る。ぼくは不公平について考えている。

生活のたのしみ展が大きくなっていくどこかの段階で、「公平じゃない」という声が出てくるかもしれない。ことわっておくけれども、公平であるべきところは徹底的に公平であるべきだとぼくは思う。自分で自分のことを言ってもしょうがないけど、性質としてはぼくはたいへん公平を重んじるほうで、その点においては頑固といっていいくらいだ。

けれども、公平のために、いいものや、たのしいものや、おもしろいものが本質やエッジを失うのは困る。不公平ないいものができたときは、公平さのためにそのよさや強さを削るのではなく、渡すお客さんとの関係をそれに負けないくらい強くするべきだ。よりいいものをつくり、よりいい関係をお客さんと築いていくべきだ。

いま、ほぼ日は、できていると思う。初日の原稿と同じく、ぼくはそこに胸を張る。

それでも、自分たちが、大きくたのしくあたらしくおもしろくなろうとする未来への道に、ぜんぶのよさが必ず失われないと確信するほどぼくは楽観的ではない。明日の台風の進路がどうなるかわからないように、あらゆることは予測どおりには運ばない(だからこそおもしろい)。

このややこしい二日がかりの原稿を、まとめるとしたらこうなる。いいものといい関係を等しく大事だと考えるほぼ日の一体性をぼくらは失ってはならない。仮にその一体性を人格のようにとらえるなら、健康で、たのしく、健全な向上心をもって歩んでいけますようにとぼくは強く願う。

ほぼ日ではない場所だからさらに突き抜けて書くとすれば、ぼくらはそういった組織の一体性を糸井重里という人の実績と才能と個性を資本にしたことによって、まったくの幸運としてたまたま得た。はじまりは幸運だが、その希有な萌芽をどう守り育てていくかは、今後の行動によるのだと思う。逆にいえば、希望をもって、できることを、あきらめずに一生懸命やっていれば、きっとできるということだ。

そういったぜんぶをひっくるめて、これからの生活のたのしみ展が、もっともっといい場所になっていくように、とぼくは思っている。

だから、生活のたのしみ展を、これからも見ていてください。

ややこしく暑苦い話を、最後の最後にすみません。でも、終わって間もないときにもやもやと渦巻く生々しい思いを書き残せて、ちょっと満足です。このnoteという場所がなければ決して書けなかったと思いますし、書かなければ忘れていただろうと思います。そういう意味では、古賀さん、ありがとう。ついでに古賀さん、この5日間、ほんとうにありがとう。田中さんもありがとう。打ち上げをしましょう。

さあ、もやもやした長い話のあとは、花壇にぱっと咲いたチューリップのようなわかりやすさをあなたに。

「今日の森ッコ」最終回です。

せっかくだからいくつか分けていきましょう。まずは、「生活のたのしみ展会場で、劇団カクシンハンの、白塗りの俳優さんを見てビクッとする森ッコ」。

かわいいだろう?

つづきまして、制服代わりのエプロンをとって自分の買い物をするときの、「森ッコ・お出かけバージョン」。

森ッコ、ついに会場で「森ッコさんですか?」って声をかけられたそうです。いいと思います。愛でられていけ。

さあ、最後です。5日間、読んでくださってありがとうございました、というご挨拶をどさくさに紛れて挟みこんでおきます。古賀さんも田中さんも、おつかれさまでした。どさくさ、どさくさ。

最後は、森ッコの基本形です。「パネルを切る森ッコ」。

完成したカードの文字が「WOMENS BASIC」っていうのも、いいですね。最後までお読みいただき、ありがとうございました。そして嫌がらずにつきあってくれた森ッコ、ありがとう。

デーモン木暮閣下風にいえば、お前をマグカップにしてやろうか!

( お し ま い )