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『ミッドナイトスワン』を観て

何度か友人に誘われて行ったライブで10列目の席から間近に見たときは、ステージ上の他の4人のテンションとはあまりにも異なる、儚げに佇む草彅剛に驚いた。今、資料を見ると、ドラマの役作りをしていた時期だったらしい。

草彅剛という役者を、どうしてもっと早くから私は知らなかったんだろうと心の底から思う。衝撃的なシーンなどは強烈に脳に刻み込まれてしまうものだが、草彅剛の演技の場合は、目線・短くて静かな声の台詞・普通の日常のシーンが全て印象に残り、後から思い返されるのは、温かさと優しさ・真剣さなのである。

内田監督のオリジナル脚本は、スパッと明快で読みやすい。長い小説が苦手な私が、一気に読めた。文章の間の空白にまるで風が通るようなブリーズスペースがあり、それはあたかも読む者に『好きなように解釈してください』というような自由さがある。読む人それぞれに創作を楽しませるようだった。監督自身が「そういう解釈もあるんですね。」とか、草彅剛の演技を「そういう表現の仕方もあるんですね。」と好奇心ぽく嬉しそうにおっしゃっていたのが印象的だった。細かい文章を細部まで書かないのは、その時に表現したものはその時だけのもので、後からこんなことを付け足せばよかったとか、書いた時点としばらく経った時の気持ちの距離や時間差を受け入れる創造性を、表現者として大切にしたいからなのだろうか。そしてその行間を自由に表現する感性の持ち主が草彅剛なのである。

「うちらみたいなんは、ずっと一人で生きていかんといけんのんじゃ。強うならんといかんで」と言って一果を抱きしめた時、一緒に泣くような表情をするほんの一瞬前に、凪沙が満ち足りたような、愛する大切なものを手に入れたような表情をしていることに気がついた。それはもう、草彅剛が自分自身でも気がつかないような、天性そのものなのだろう。

気持ちは女の子で、きれいなもの、かわいいものが好きなのに、そのグループには入れず、誰にも気づいてもらえない。凪沙は大きくなるにつれて自分の意思とは逆に筋肉がついてきて男らしい身体と声になっていく。多くのMTFの人は、化粧をしてドレスを着ることが内面の自分からしたら自然のことなのに、異色と見られ、時にはそれを術にすることで生活をせざるを得ない。しかしそのショービジネスがここではバレエに繋がったのだ。

手術を受ける理由はもう一つあった。一果の親代わりになってバレエを続けさせるには、母親になりたい。一果がコンクールなどで肩身の狭い思いをしないようにと思ったのか。自分の願いを超えて自分の身を犠牲にしても、という願いに変わっていくのは、胸が痛いと同時に使命を持った人間の力強さをも感じた。

呼吸も苦しく視力も失いかけ、妄想と現実もわからなくなっている状態の時、奇跡的に一果がやってくる。手に触れただけで、一果だと知る。会話が正常になる。死期が近く食欲などないだろうし、まず起きることさえ辛い状態なのに、一緒に食卓につき、一果の初めて作った焦げたハニージンジャーソテーを口にして、冗談さえも言う。愛の力は強い。一果が言う「もう私のもんだから。」は、最初私には『本当の愛はしっかり私が受け継ぎましたよ』に聴こえた。

海のシーン。一果の手助けで海に来ることはできたが、凪沙が女性として海に入る願いはとうとう叶わなかった。私は凪沙の最期を看取った一果が自殺しようとして海に入ったとは全く思わない。生きている間に女性として海に入ることを切望していた凪沙のために、その魂を海に浮かぶ白鳥に届ける決意だったのだろうと。凪沙の魂を自由にするために。

ずっと引っかかっていたハニージンジャーソテーのレシピの「もう私のもんだから。」の解釈に私なりの答えがやっと出た。それは、『凪沙の愛はしっかり私の中に入りましたよ。』ということだ。そして一果もこれからは、プリマを目指して踊る。

思えば私はあまり泣かないヤツだった。劇場でミッドナイトスワンを観た後は、ヘロヘロのヨレヨレになってその場を追い出される。ピアノのサントラを耳にした途端、予告編を見るだけで、涙モードになってしまう自分に驚いている。草彅剛はレッドカーペットの上を歩き日本アカデミー賞を受賞し、私の願いのひとつは見事に叶えられた。もし明日突然死んでも後悔しないと思うほどこの作品に惚れてしまった私の願いはもうひとつ、草彅剛が海外の俳優と映画を作り、あちらのアカデミー賞を受賞することである。