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8.そして今日もまたひとり、

部活の前に美術準備室に向かうと、田中先生は今日もこちらを向いていた。
スマホが震えていたのは、無断遅刻を心配してくれた先生からのラインだった。
昼休みに担任からこってり絞られているときも、職員室で先生がこちらをちらちらと見ていたのには気がついていた。

酸っぱいような匂いがつんと鼻について、思わず顔をしかめた。
特に気にしていなかっただけで、この頃はいつもこの部屋にあった匂い。
無視してきたつもりは特になかったけれど、今日私の嗅覚はそれをいやにはっきりと認識した。
ねぐらはあのカフェじゃなくてここなのかもしれない。
薄暗くて埃っぽくて生き物臭くて、狭くて細長い、私の大切な場所。

「今日はどうした?」

何でもない、というために首を振る。
それでも近づいてきた先生の手はこちらに伸びてきて、私の頭へ向かおうとしているのがわかる。
先生の悲しい目、同じものを延々書き続けるキャンバス。
同級生の男子達とはどこか決定的に違う、この不快な匂いは、それらと滑稽なほど調和しない。
そしてこの不釣り合いは、何やらとてもおぞましい。

祖父ももしかしたら、先生みたいな人だったのかもしれない。
気がついてしまったらもう到底無理だ。
私は戻れない、今朝までいた夏の景色の中には、もう二度と。

だから私は、振り切るように先生に抱きついた。
とっさに私を受け止めた先生の汗臭さをなるべく意識しないように、掻き消すように。
広い背中に、こわごわ両手を回す。

長い長い時間が経ったような気がするし、一瞬のことだったかもしれない。
それでもたしかに、先生の腕も私と同じように私の背中に回された。
おそるおそる、といった感じなのに、それでも私とは根本的に違う力強さをその腕に感じる。

最期に祖母がゆかりさんに泣きついていたことは、結局伝えなかった。
伝えればきっとあの人のやりきれない気持ちはほんの少しだけ軽くなるだろう、とわかっていた。

私は強く強く、先生の背中に置いた指に力を込めて目を閉じる。
意識しないようにすればするほど、酸の匂いが気になった。
それでも私はこの手を離さない。
通学鞄に収まったあの絵、堕ちていく天女の姿が見たばかりのように、ありありと瞼の裏に浮かぶ。
だけど私は、スミ子でも育美でもない。

「三谷……」

先生はいつもと同じように私の名前を呼ぶ。
ただほんの少しだけ、その声にはためらいが混じっている。
大丈夫だよ、だって私の指も震えてるから。

「みお、だよ。私の名前」

美しく生まれる、と書く。
この人が私の名前をきちんと呼んでくれるかどうか、確かめるのは私自身だ。

(了)

死ぬほど励みになります、ありがとうございます❤️
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丹宗あや【小説】

JK時代から自作タグ打ちHPで小説を公開、2020年までに本が出したいアラサーです。 予備校お仕事ラブコメ『かがゼミナールの学習記録』 https://estar.jp/novels/25490045 長編小説『無明情夜』 http://amzn.to/2BXRzAS

ありふれた聖女のレシピ

祖母から死ぬ前に零れ落ちた秘密の欠片は、ただの中学生だった私にはこのうえなく魅惑的で。

コメント8件

さおりさん
むしろ夜中まで読んでくださってありがとうございますm(__)m
なるほど、言われてみればたしかにスミ子さんのゆかりさんへの執着すごいですね…!
スミ子さんは戦うのを早々に放棄して、苦労はしたけどまあめでたし(?)ルートに行ってしまいましたが、家族がいる美生がそうならないための未来の種は少し置いてきたつもりです。
そしてその種は、ありふれた私達も、誰もが持っているものだと信じています。
未来を見つけてくださってありがとうございます。
お祖母さんの秘め事が孫に知れて、良いとか悪いとかじゃないけど、良かったと思いました。ゆかりさんは、自分のためなのかお祖母さんのためなのか、お祖母さんの若い頃にそっくりな主人公のためなのか、分からないけど、話したんですよね。それが主人公にとって、すごく大切なことなんだ と(*´-`)あの絵を見た静かな衝撃を心に持ちながら、お祖母さんと同じくらい魅力的な「ありふれた聖女」になっていくんだ と。あと、主人公の名前を知れてうれしかったです。美生、先生とうまくいくといいなぁ(*´ω`*)二人が幸せと動揺と一緒に、お互いの背中に手を回している姿を想像してしまいます(*´ω`*)
いマこさん、最後まで読んでくださってありがとうございます。
友人の感想で「美しく生きるじゃなくて生まれる」なんだね、と言われて、はっとしたことを思い出しました。
自分は「ありふれた」量産型悲劇になってしまったと書きながら悲観していたんですが、私に彼女の人生を決めつけることはできないですよね。
美しく生きていってほしいなと、初めて思えるようになりました。
優しいお言葉をたくさんいただいて、本当にありがとうございました。
kumiさん、こちらこそご無沙汰しています(私も1ヶ月くらい幽霊noterでした笑)

運命なのか血なのか、避けられないものってあるんだよなぁと思っています。
ただ、環境や時代、個人の性格などの要素で辿る道は異なってくるとも考えています。
先日『鏡の中のマリア』という、同じ美生という名前の主人公の物語を書き上げました。
必ずしも同一人物とはいえない書き方にしていますが、こちらの美生は、美しく生きようとしている大人の美生です。
数ヶ月以内に公開できればと思っています。
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