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サンクトペテルブルクの夜を知らない4


「明日は晴れそうだから遠出もできるけど、どこに行こうか」ガイドブックを繰りながら夫が言った。
「ならまた要塞に行きたい」
「クロンシュタット要塞?」
「違う…なんだっけ、オレシェク要塞…?」
ガイドブックにも載っていないけれど、ペトロパヴロフスク要塞の中に無造作に置かれていた立て看板の中にひっそりと案内があり、なんとなく気になった場所だった。
「市内から電車で1時間くらいだし行ってみようか」


翌朝レーニン像の佇むフィンランド駅から東に向かう電車に乗り、延々と続く森と田舎の風景を抜けて私たちはオレシェク要塞を擁するラドガ湖へと向かった。地元の人と思しきたった数人しか降りない駅に不安を抱えながら降り立ち、歩いて十数分のはずの船着場へと向かう。
「お、あれだ」
鏡のように真っしろく朝日を反射する湖面の上に、可愛い城のような要塞が建っていた。私たちはすぐ出るよと言われた船の切符を買い、小さな渡し舟に乗った。
こちらも私たちの他には観光客がおらず、要塞の先の街に行くらしいスーツ姿のビジネスマンだけが乗っていた。船はすぐに要塞に着いた。

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オレシェク要塞は、スウェーデン・ノヴゴロド戦争最中の13世紀にモスクワ大公、またノヴゴロド大公であったユーリィ3世によって対スウェーデンの要として建設された。そしてこの要塞で最初の国境画定条約が結ばれた以後も、この場所はスウェーデンとロシアの間で揺れ続けた。
帝政ロシア領となった後は、要塞は政治犯の収容に使用され、多くの著名な人物がここで命を落とした。
十月革命後、1928年から1940年まで革命博物館として使用された後、第二次大戦中には赤軍が守っていたこの場所はドイツ軍の激しい攻撃を受け、激しく損傷を受けたが陥落することはなかった。

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要塞の入り口には小ぶりの林檎が木箱に山盛りになったものがいくつか並んでいた。近くを通りかかったタジク人と思しき職人さんがそれ食べていいよ、と声をかけてくれたのでいくつかもらって齧った。この時期はそこいら中で林檎がなっている。
林檎をかじりながらいよいよ門をくぐり、中に入った私たちは少々唖然とした。

城壁の外側はすでに美しく修復され戦争の痕跡は見えなくなっているが、中央にそびえる聖堂らしき建物と近代の建築と思われるレンガ造りのかなり大きな建物はおそらく砲撃を受けてぼろぼろでほとんど廃墟だった。

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屋根の落ちた聖堂のそばには小さな売店が軽食や飲み物を売っており、そこから少し奥のところにアーチェリーやクロスボウを体験させてくれるスペースがあった。
アーチェリーをしていこうよ、と夫が言ったので店の人が戻るのを展示パネルを読んで少し待った。

戻ってきたオーナーはひょろりと背の高い、金髪で肌の白いいかにもロシア人らしい青年だった。彼は私たちに丁寧に弓の引き方を教え、わたしはアーチェリー、夫はアーチェリーとクロスボウを打ってみた。
大学生くらいに見えるのに、見かけも話しぶりもあまり現代的な感じを受けないので面白いなと思っていたら、彼は突然ここにはカタコンベ(地下墓所)があるんだ、と話し始めた。
案内してあげるよ、と話しながらどんどん奥に進んでいき、城壁をくぐり、ある建物の地下へとつながる入り口にたどり着いた。
ここがカタコンベの入り口だよ、じゃあ僕は戻るね、と何の変哲もない建物の入り口に私たちを置いて青年は去っていき、私たちは扉をくぐって真っ暗な地下へと降りた。

地上は暑かったが地下はひんやりとして、何の明かりもないのでただただ暗く何も見えなかった。私たちが入るのを見て後から入ってきた他のお客さんが何も見えない、みたいなことを言いながら去っていった。
ヨーロッパのような、壁面いっぱいの骸骨に迎えられるのかと少し身構えていたけれども、何も見えなかった事に少しだけほっとして私たちも外に出た。

地下を出たところで城壁に掲げられていた鉄の墓標を見て夫が「レーニンの兄がロシア帝国に殺されたのもここだ」と言った。城壁にはいくつか時代をまたいだプレートがあったが、それはいずれもこの要塞の島で亡くなった人々の碑だった。
レーニンの兄のアレクサンドル・ウリヤノフは反王党派運動に共感を持ってナロードニキ派の秘密結社「人民の意志」に参加し、ロシア帝国皇帝のアレクサンドル3世暗殺を企てたが、実行の直前に拘束され恩赦を請うこともなく21歳で、この場所で絞首刑になった。
なぜ彼が突然カタコンベを案内してくれる気になったかは分からなかったけれど、普通に歩いていたら、鉄の墓標を墓所だと思い、地下墓所の存在には気づかなかったかもしれない。

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外壁を抜け、城塞の外側に出ると内側の様々な戦いの爪痕とは打って変わって、柔らかい下草と穏やかな湖の優しい世界が広がっていた。真っ青な空に北部の短い夏を彩る小さな花々、ピクニックを楽しむ人々、釣りをする男性たち(釣れたらその辺のねこにあげるそうだ)が楽しげな声を上げ、涼しい風に寄せられてきた透明な波がそよそよと浜辺に打ち上げていた。
この場所に溢れたたくさんの重い記憶を忘れ、私たちも波打ち際に転がっていた丸太の上に座って持ってきたお茶を飲み、チョコレートを齧った。

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