見出し画像

公武合体派の奮闘と挫折

長州藩唯一の良心・長井雅楽の無念

イシコフ: 戊申クーデターに至るまで、そしてその後に長州藩の犯した罪の大きさは突出しているんだけれど、その長州で唯一、良識ある行動を貫いた人物がいる。藩の直目付じきめつけ長井雅楽うた時庸ときつねだ。

長井雅楽(1819-1863)
安政5(1858)年から長州藩の直目付になり、開国論を唱えたが、過激攘夷派の工作により最後は切腹に追い込まれた。

 長井は日本は開国すべきだという考えで、文久元(1861)年に開国を趣旨とした『航海遠略策』を、ときの藩主・毛利慶親よしちか敬親たかちか)に建白し、これが藩論とされた。

凡太: え? 長州藩が開国論?

イシ: 意外だろう? この毛利慶親という藩主は「そうせい侯」というあだ名を持つほどの無責任なお殿様でね。家臣が何か提案してくると「そうせい」と言ってOKを出すから「そうせい侯」。

毛利慶親(敬親)
(1819-1871)
 ……長州藩最後の藩主。幕末の混乱期の藩主だが、薩摩の島津久光のように自ら先頭に立って動くことはなく、家臣たちに任せきりだったので「そうせい侯」というあだ名がつけられた。

 慶親が藩主になる前の長州藩は、藩主が立て続けに急死したり、大洪水の被害を受けたりしてボロボロ状態だった
 第8代藩主・毛利治親が36歳で急死。息子の斉房が10歳で第9代藩主になるが26歳で急死。
 弟の斉熙が第10代になったけれど、財政センスがゼロで藩が困窮。
 その養子の斉元が第11代を継いだが、隠居した斉熙がまだ実権を握っていて、しかもこの時期に大洪水に襲われて萩城下の3分の2が浸水。斉熙、斉元はその年に死去。
 斉熙の次男・毛利斉広が23歳で12代を継ぐと、わずか20日後に急死。
 その後を継いだのが慶親だった。

凡太: ほんとにボロボロだったんですね。毛利慶親さんも貧乏くじを引かされたというか……。でも、なぜそんなゴタゴタ続きの貧乏藩が幕末であれだけ目立つようになったんでしょう。不思議な気がします。

イシ: 藩主に統率力やカリスマ性がなかったから、家臣たちが暴れる土壌があったともいえるかな。
 長州藩の藩論は、長井雅楽が登場するまでは攘夷論だった。
 ところが、井伊直弼が攘夷論者や一橋派を力尽くで粛清し始めた(安政の大獄)。藩内の攘夷論者たちの筆頭のような吉田松陰も江戸に送られて投獄され、あろうことか老中暗殺計画まで自白してしまって斬首された。
 その後、「桜田門外の変」で井伊直弼が暗殺され、一橋派の諸侯らが盛り返した。
 そのタイミングで長井が「航海遠略策」を出してきたのだけれど、そうせい侯は今まで通り、「では、そうせい」と応じて、「航海遠略策」……つまり「開国論」を藩論として採用した。長井はそれを朝廷に伝えるために上洛する。
 朝廷の公武合体派の公卿らに建白書を渡し、それは孝明天皇にも届いた。
 孝明天皇もその内容に満足し、幕府にもそれを伝えるようにということで、長井はさらに江戸に向かって、開国派の老中・久世広周くぜひろちか安藤信正らと面会し、建白書の内容を伝え、賛同を得た。

凡太: え? ちょっと待ってください。孝明天皇の頭の中は攘夷で凝り固まっていたんじゃなかったですか? それなのに長井さんの開国を趣旨とした建白書に満足したって……どういうことでしょう。

イシ: そこが長井の巧みなところだよ。
 建白書の内容はざっとこんな感じだった。

「当今に至り破約攘夷と申す儀事理を深察仕り候者は決して落着仕らざる事にて唯当時慷慨と唱へ決起の輩のみ愉快に存じ奉る可く候其子細は只今破約と相成り候へば黠夷共決して承伏は仕る間敷戦争に相成り申す可く候」
(「破約攘夷」……即ち、幕府が結んだ条約を破棄して異国を打ちのめせと騒ぐ者たちがいますが、無責任にそう叫んでいい気になっているだけです。そんなことをしたら諸外国は結託して日本と戦争することになります。)

「扨又鎖国と申す義は三百年来の御掟にて島原一乱後別して厳重仰せ付けられ候御事にて其以前は夷人共内地へ滞留差免され且つ天朝御隆盛の時は京師へ鴻臚館を建て置かれ候ことも之れある由に候へば全く皇国の御旧法と申すにても之なく」
(そもそも鎖国という方策は島原の乱の後に作られた、たかだか300年の法であり、鎖国が皇国の伝統的な法であるというはずもありません。それ以前は外国人が日本国内に滞在することは許されており、朝廷が隆盛だった平安時代には鴻臚館という外交・海外交易の施設もありました。)

「漸次皇国の御武威を以て五大洲を横行仕り候をはゞ彼れ自ら皇国の恐る可きを知り求めずして貢を皇国へ捧げ来らんことを年を期して待つべく候」
(少しずつ国の力を蓄えていけば、いずれは世界に皇国の力が知れ渡り、向こうから貢いでくるようになりましょう。その時期を待つべきです。)

「急速航海御開き武威海外に振ひ征夷の御職相立ち候様にと厳勅関東へ仰せ出され候はゞ関東に於て決して御猶予は之ある間敷即時勅命の趣を以て列藩へ台命を下され御奉行の御手段之ある可く左候時は国是遠略天朝に出て幕府奉じて之を行ひ君臣の位次正しく忽ち海内一和仕る可く候」
(そのためには、すぐにでも世界に航海してわが国の武力を示し、異国を征する部署を幕府に作るよう命じてくだされば、朝廷の権威も正しく知らしめることとなり、国内外がうまくまとまることでしょう。)

(『防長回天史』第三編上第七章長井雅楽の周旋より)

 現時点で条約を破棄して攘夷に打って出るのは無謀なので、幕府に命じて海軍力を上げるようにしましょう。そうすればいずれは諸外国から平伏して貢いでくるようになり、朝廷の威光を世界に知らしめることができます、という言い方だったから、孝明天皇も納得したんだね。
 それに、この時期にはすでに長州・薩摩・土佐・水戸などの過激派が京都市内でテロを繰り返して治安は悪化し、「尊皇攘夷」「天誅」を叫んで暴れ回る連中に孝明天皇も手を焼いていたから、そうした勢力とは一線を画しておきたいという気持ちがあったんだろう。

 しかし、長州の中では、師と仰ぐ吉田松陰を殺された桂小五郎や久坂玄瑞らの過激攘夷派が力を得ていて、長井を裏切り者として消し去ろうとする。藩主の毛利慶親もその勢力を抑えられず、ズルズルと松陰門下生らの過激な攘夷論に従ってしまう。

凡太: 「そうせい侯」ですもんね。

イシ: さらに悪いことに、幕府で長井の理解者になっていた老中・安藤信正が水戸藩のテロリストらに襲われ負傷するという事件が起きた(坂下門外の変)。
 信正は老中を罷免され、隠居、蟄居処分に。持ち藩の磐城平藩は2万石の減封処分になった。

凡太: 一方的な被害者なのに、なぜ罰せられるんですか?

イシ: まったくだね。理不尽この上ないよ。
 この時点での将軍は徳川家茂で、坂下門外の変の翌月には公武合体政策の一環として皇女和宮を嫁として迎え入れている。実質的には政治をする能力がない人間を血統だけで将軍に据える血筋優先ルールの弊害といえるね。
 老中だった阿部正弘~井伊直弼~安藤信正……といった面々が血縁に関係なく能力主義で将軍として権力を握り、自由に采配をふるえるシステムであれば、問題はもっとシンプルに整理できたかもしれないね。
 老中クラスの人材が優秀でも、その上に将軍がいる。さらには朝廷があって、天皇の勅許があるとかないとかで大問題になる。こうした形式上の多重システムが権力者の暴発を防ぐ安全弁のように働くこともあったかもしれないけれど、幕末のこの時期は最悪の方向に働いてしまったんだな。

 ちなみに坂下門外の変の実行者は水戸藩の過激派浪士4名と下野と越後の医師1名ずつの合計6人なんだけど、このテロの計画段階では長州藩の桂小五郎(木戸孝允)、松島剛蔵らも加わっている
 桂や松島が実行に加わらなかったのは、その時点では長井の「航海遠略策」が長州の藩論となっていたため、動きにくかったからだ。
 そうしたこともあって、長井は藩内の過激派にどんどん追い詰められていく。
 江戸から京都に戻ったときにはすでに京都は手の施しようがないくらい荒れていて、すぐに藩に呼び戻された後、長州藩の責任をすべて取る形で切腹を命じられ、腹を切って死んだ。

凡太: ちゃんとした考えを持った人たちがどんどん失脚したり殺されたりしていったんですね。

イシ: やりきれないよね。幕末史は馬鹿とテロリストが作ったと言ってもいいかな。

 長井雅楽の無念を忘れないように、長井が切腹させられるまでの5年間を、主に長州藩関連の出来事でまとめておこう。

  • 安政5(1858)年 徳川政権が大老井伊直弼の下で安政五カ国条約に調印

  • 安政6(1859)年 幕府の無勅許での条約調印を糾弾した長州の吉田松陰が江戸に檻送されて投獄され、老中暗殺計画を自白したため斬首される

  • 安政7(1860)年3月 桜田門外の変で井伊直弼が暗殺される

  • 文久元(1861)年 長州藩直目付・長井雅楽が、公武一和に基づいた『航海遠略策』を藩主・毛利慶親に建白し、藩論となる。その後、長井は上洛し、朝廷に建白書を提出。孝明天皇もその内容に満足し、幕府要人に伝えるよう命じられ江戸へ。幕府老中・久世広周、安藤信正らと面会し、建白書の内容を伝え、賛同を得る。

  • 文久2(1862)年 1月、坂下門外の変で安藤、久世らが失脚。3月、長井は江戸を去り京都へ戻り、改めて『航海遠略策』を建白するが、すでに京都の町は過激攘夷派のテロが吹き荒れていて失敗。岩倉具視久坂玄瑞らの朝廷工作によって陥れられる。久坂は藩に長井の弾劾書を提出。長井は江戸帰府を命じられ、薩摩の島津久光の入京と入れ違うタイミングで京都を去る。

  • 文久3(1863)年 藩主・毛利慶親が長州の藩論を航海遠略策から破約攘夷へ転換。長井に切腹を命じる。その後、長州藩は尊王攘夷の最過激派として京都で暴れ回る。

久光が動く

 文久2(1862)年というのは、幕末史の中でも大きな山場の年だった。
 この年、薩摩の島津久光は公武合体を進めるために兵を率いて京都へ向かった。
 孝明天皇も、制御不能になっている過激派浪士や中下級公卿たちを抑え込むために久光が動いてくれることを期待していたようだね。
 ところが京都にいた長州、薩摩、土佐藩などの過激派テロリストたちは、ついに薩摩が倒幕のために兵を挙げたと勘違いして、ますます暴れ始めた。
 久光にはそんな意図はないから、自藩の藩士であっても、テロ活動をする者たちを断固として粛清した(寺田屋騒動)。
 これによって久光は孝明天皇からさらなる信任を受け、勅使、つまり天皇からの使いに付き添う形で江戸に向かった。
 江戸で勅使が突きつけた要求は主に3つで、

  1. 低迷・硬直している幕府の政治を変えるため、一橋慶喜を将軍後見職に、前福井藩主・松平春嶽を大老職につける。

  2. 国政の補佐役として、薩摩藩島津家・長州藩毛利家・土佐藩山内家・仙台藩伊達家・加賀藩前田家を五大老として幕政に参加させ

  3. 天皇のもとでの国家一丸を示すため、将軍・徳川家茂が諸大名を率いて上洛し、朝廷で政治を行う

 しかし、幕府は江戸まで乗り込んできた久光には警戒心と嫌悪を抱いていた。
 実は久光は、江戸に入る前に江戸の薩摩藩邸をわざと燃やして、その被害視察という名目でやってきたんだ。この自作自演が幕府にバレていたことも、警戒心をさらに強める結果となった。
 しかも、京都に戻る際には、久光一行がイギリス人を無礼討ちするという、例の生麦事件を起こしてしまう。

 しかし、結果としては、幕府は久光が持ってきたともいえる勅使の要求をほぼ受け入れた。
 実は幕府は、朝廷からの勅使が来る前に、すでに安政の大獄で処分を受けていた一橋慶喜、松平春嶽、山内容堂といった旧一橋派の実力者たちを赦免していた。彼らを復帰させることで、攘夷一辺倒の朝廷に働きかけてもらい、朝廷を開国に転じさせたかったんだね。
 春嶽はその役割を引き受ける代わりに、将軍家茂の上洛を要求し、幕府もそれを受け入れた。
 これもまた後々、幕府にとっては不幸の種となってしまう。

松平春嶽(慶永)
(1828-1890)
越前福井藩第16代藩主。当初は攘夷論だったが、老中・阿部正弘や家臣の橋本左内らの論に納得して開国派に転じた。将軍継嗣問題で一橋派に回り、安政の大獄で表舞台から消えたが、その後、勅使を派遣して幕政改革を迫った島津久光の行動により中央政界に復帰。幕府の政事総裁職に任命されたが、上洛した京都に吹き荒れる過激攘夷派の暴力を見て脱力。自ら総裁職辞職を申し出る。

松平春嶽、横井小楠の不運

 一方、幕府の政事総裁職に就任して政治の中枢に返り咲いた春嶽は、以前からブレーンとして重用していた横井小楠しょうなんと共に幕政改革に乗り出した。
 この横井小楠という人物、長井雅楽と同様、教科書ではあまり触れていないと思うので、少し説明しておこう。

 春嶽は、優秀な人材を登用して意見を聞き、臨機応変に自分の考えも改めていく人だった。そこが、自分で全部行動する久光とはタイプがまったく違うね。
 若い橋本左内を登用したのも素晴らしかったけれど、左内は不運にも安政の大獄で斬首されてしまった。

凡太: そうでした。あれはひどい話ですよね。

イシ: 左内を失った春嶽にとって、横井小楠は最後の切り札というか、全幅の信頼を寄せていたようだね。
 もともと横井は越前藩の人間ではなく、熊本藩の藩士なんだ。

横井小楠(時存)
(1809-1869)
熊本藩士、儒学者。福井藩の松平春嶽に招かれて政治顧問となるが失脚し、藩士資格も奪われ一浪人に。後に明治新政府に参与として招かれるが暗殺される。

 横井は熊本藩の藩校・時習館に8歳で入校して秀才ぶりを発揮し、20代で塾長になった。
 30歳のときに藩命で江戸に遊学。幕臣の川路聖謨らとも知り合っている。
 その江戸滞在中、水戸藩の藤田東湖が開いた忘年会の帰りに酒に酔って喧嘩して、それを咎められて帰国させられ、70日間逼塞(外出禁止)の罰を受けた。

凡太: 藤田東湖というのはゴリゴリの攘夷派ですよね。あの徳川斉昭に重用されていた……。

イシ: そうだね。開国するかしないかで攘夷派の連中と論争になったのかもしれないね。

 で、その後、藩内の有志と共に「実学党」と呼ばれる改革派の勉強会を立ち上げるんだけれど、これが藩内の保守派からの圧力で解散させられ、横井は自宅で私塾を開いた。ちなみに、そのときの門弟筆頭が徳富一敬で、徳冨蘇峰・蘆花兄弟の父親だ。
 その私塾に、諸国を遊学中だった福井藩主小姓の三寺三作みでらさんさくという人が立ち寄り、すっかり横井に惚れ込む。
 三寺は帰国後に藩主の松平春嶽に「小楠こそ天下の大儒である」と進言し、春嶽は横井を呼び寄せた。横井はすぐに応じたんだけれど、熊本藩主・細川斉護は、あのような問題のある人物を藩から外に出すわけにはいかないと、春嶽からの申し出を断った。それでも春嶽は諦めずに何度も交渉し、粘り勝ちのような形でようやく呼び寄せることができた。

凡太: そこまでして藩外の人を呼び寄せたんですか。

イシ: そういうところが春嶽の偉いところだよ。家柄とか藩籍とかに関係なく、優秀な人はどんどん登用して意見を聞く。
 春嶽には、橋本左内や横井小楠の他にも、鈴木主税ちから、中根靱負ゆきえ(雪江)といった有能な側近がたくさんついていた。

 横井の対外政策の基本方針は、「相手が強いか弱いかという力関係ではなく、相手の要求がまっとうなものかどうかで判断すべき」というもので、そのことをロシアとの条約交渉にあたった川路聖謨にも書き送っている。
 福井藩で春嶽のブレーンとなった横井は、生糸の生産を促進して、長崎から輸出するという政策で利益を上げるなど、すぐに実力を発揮した。当時のヨーロッパでは蚕の病気が流行って生糸の生産がうまくいっていなかったことで、日本産の絹・生糸はバンバン売れたんだ。
 文久2(1862)年に幕府が春嶽を政事総裁職に就任させると、横井も上京し、幕政改革に取り組んだ。
 参勤交代はもう時代遅れで、無駄な出費によって国力が低下するからやめましょうよ、といった具体案をどんどん出している。
 だけど、出る杭は打たれるで、春嶽の進歩的な考えを嫌う保守派や攘夷派からは恨まれ、この年の年末に、熊本藩江戸留守居役らと忘年会をしていたところを、同じ熊本藩の足軽3名に襲われた。
 手元に刀を置いていなかった横井はその場から身一つで逃げて、福井藩邸に戻ってから予備の刀を持って戻ったんだけれど、刺客はすでに逃走した後で、同席していた熊本藩士2名は負傷。うち一人はその後死亡した。
 これが「仲間を見捨てて一人逃げたのは武士としてあるまじき行い」と咎められ、熊本藩から切腹を命じられる。

凡太: ええ~? 滅茶苦茶だ~。なんでいつも被害者が処罰されるんですか。

イシ: 熊本藩内で横井を妬む者がいっぱいいたんだろうね。
 福井藩が必死に横井を弁護したために切腹は免れたんだけれど、知行召上、士席差放(藩士の身分取り消し)という処分が下された。これによって横井の頭脳は中央政界に生かされることなく、ただの浪人として激動の日々を外から見守るだけになる。
 春嶽は橋本左内に続き、横井小楠という超有能なブレーンまでも失ってしまったわけだね。

凡太: もったいないですね。でも、横井さんが、橋本左内さんみたいに殺されなかったのはよかったです。

イシ: このときは命を落とすことはなかったんだけれど、最後はやはり暗殺されてしまうんだよ。
 明治新政府の副総裁となった岩倉具視が横井の能力を高く買っていて、参与として迎え入れるんだけれど、その後、明治2年の正月に、籠で移動中に襲われて殺されている。
 横井は、儒教を基本とした「仁政」、つまり、思いやりと相互理解を持った政治を目指していた。しかし、そのためには西洋の技術を貪欲に学ぶことが必須だという現実的な考えも合わせ持っていた。
 横井の思想が明治政府に生かされることはなかったのは残念だね。結局、明治政府は「邪魔者は消せばいい」というテロリスト思想の輩が上層部を独占し、私利私欲の権力争いをするような政府になってしまった。


2013年時点ですでに現代の終末戦争を予言していたかのような小説
『人類を養殖している生物がいる』 Kindle版 180円
書籍版もあります ⇒オンライン決済でご購入
書籍版はAmazonでも買えます⇒こちらから

ここから先は

0字
歴史の見直しは気が遠くなるような作業です。マガジン購入者が一人でも二人でもいらっしゃれば、執筆の励みになります。

現代人、特に若い人たちと一緒に日本人の歴史を学び直したい。学校で教えられた歴史はどこが間違っていて、何を隠しているのか? 現代日本が抱える…

こんなご時世ですが、残りの人生、やれる限り何か意味のあることを残したいと思って執筆・創作活動を続けています。応援していただければこの上ない喜びです。