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この本屋の片隅で #木曜日ノ木之瀬

本屋が好きだ。

特に意味もなく立ち寄るのが好き。というか定期的に意味なく立ち寄らないと精神的に不調を起こす、くらいには生活のルーティンとして成立している。疲れて帰るときには、家に帰るのを押してでも本屋で精神をコントロールする。

↑丸善 京都本店

そういったルーティンは、チェーン店であるほど良い。というか、そんなときお洒落本屋に立ち寄るのはかえって毒だ。独自の傾向で陳列されたカオスな本棚になにを感じろというのか。出版社やジャンルで括られた隙間をゆらゆら漂わせてくれ。おなじ色の背表紙に見られながら棚のあいだを行ったり来たりさせてくれ。不審者か。

↑お洒落本屋 恵文社一乗寺店

本屋は、じぶんの興味ないものもあるのがいい。本の数だけ出逢いがある的な、どこぞのキャッチコピーのようなことが言いたいのではなく、ただただそこにあって、開くも開かないも己の自由であるところがいいんだ。

演歌の音楽誌を読んだことがあるか。園芸攻略本は。高校駅伝の特集誌はどうだ。私はそれらを手に取ってみたことがある。
いまの私には関わりのないように見えるこれらも、どこかの誰かにとっては欲しくてたまらない情報なのだ。という事実が私にはたまらなく嬉しいと思った。

↑大垣書店 イオンモール桂川店

翻って、私の世界もそうであるということ。
じぶんの一大事も、どこかの誰かにとっちゃ些末な事に過ぎない。そこに安心感がある。
私は演劇を観ても漫画を読んでも音楽を聴いても、それがそこにある、ということがたまらない。知らなかった世界があって(さもあるかのように描かれて)、そこに住む人たちの息遣いがあって、そしてまた知らずに過ぎていく。そういうものが好き。それを「日常モノ」と呼んでみたりするんだろう。

↑ジュンク堂書店 京都店(最近リニューアルしてこの外観は無い)

かねがね思っていることがある。本屋で。
表紙が客に見えるように陳列されている、いわゆる「平積み」の本の表紙だけを眺めながら歩くとき、タイトルと表紙の装丁だけで内容を想像する。あと帯の推薦文なんかも。それだけの情報で、ひとつの作品を作ってみたら、どうなるんだろうか。先入観をフルに発揮して創作してみる。

これは「しりとり」に似ている気がする。タイトルというのは中身があるから付けるものであって、タイトルこそすべて、ではない。が、敢えてそこから何かを想像するとき、そこには確実に創作脳が使われてると思う。それはあるいは、複数の作家が同タイトルで書く短編集のようなものかもしれない。要はその“先入観”にこそ、“作家性”みたいなものが滲み出るということだろう。

↑つい最近できた「SUINA室町」内の大垣書店 京都本店。お洒落本屋。

という妄想も捗る。本屋では。
京都チェーン本屋私的レビューでもやるか、今度。


#本屋 #本屋好き

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