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「禅」と「科学」を比べてみた

普段私が使っている手帳には、最後の方に「人から聞いた話や講義メモなどを書き留めておくスペース」が何ページあるのですが、先日そのページをパラパラめくって見返していたところ、以前どこかの講義でメモしたと思われる内容がちょうど最近読み終えた本の内容とリンクして整理できたので紹介します。

禅と科学の対比

メモしてあったのは「禅」と「科学」を対比した(と思われる)以下のような表を走り書きしたものでした。

何の講義のメモだったかわかりませんでしたが、日本を代表する禅学者である鈴木大拙さんの著書に「禅と科学」というタイトルの本があるので、おそらく仏教とか禅絡みの内容だと思います。

ただ、この表だけ見ても各項目をどんな観点で対比したものかイマイチわかりません。下図のように表の「左側の列」がほしいところです。

そこで今回は、この表に書いてある各項目の対比観点がいったいなんなのか、埋めていこうと思います。

そもそも禅と科学は対比できるのか?

まず、そもそもの話として

「禅」ってアレでしょ?お寺とかで坐禅とかするヤツでしょ?
「科学」ってあれでしょ?理科とか物理とか、でんじろう的なやつでしょ?
全然ジャンルが違うし、比較にならなくない?

と、言葉だけ聞くと比較しようがないように思いますが、「禅」も「科学」も同じ土俵の上に乗っています。どんな土俵かというと「真理を探究するためのアプローチ」というとても広い土俵です。「真理を探究」とか言っちゃうと中二病感が出ますが、

要は

「この世界って、いったいどういう風になってんの?」

という、誰も答えようがないハードな『問い』の『答え』を探す方法です。

「禅」も「科学」も、「この世界がどうなっているのか?」の答えをどうやって探すかの違いだけです。

1. 禅は「主観」、科学は「客観」ってどういうこと?

これは、「答え探し」のスタート地点をどこに定めるか、ということです。

「主観」とは「自分から見たとき」ということなので、自分の眼がスタート地点になります。自分の眼から見えるこの世界をどう捉えるか?という風に考えます。自分以外の眼から世界がどう見えているかは重要ではありません(というか問題にしません)。あくまで「自分からはどう見えるか」です。

一方「客観」とは「(第三者として)外から見たとき」ということなので、世界の外側にある眼がスタート地点になります。とはいえ、世界の外側で生きていられる人は実際にはいないので、あたかも「世界の外側から見てる体」でこの世界を見ようとするのが「客観」であり「科学」ということです。

したがって、もし科学的なアプローチで何らかの「答え」が見つかったとしたら、「うん、確かに君が言う通り世界はこうなってるわ。間違いないね!」と誰から見てもそれが同じであると同意(承認)される必要があります。ニュートンが発見した「万有引力」やアインシュタインが発見した「相対性理論」などは、まさに「科学による真理探究」の成果そのものですね。

禅は「主観」の話なので、そこに「客観」を混ぜてしまっては、それはもはや禅ではなくなるということです。例えば「坐禅をしている人の脳波を分析して、集中状態を可視化する」といった研究がありますが、あれはあくまで客観の世界から「脳波」という肉眼で見えにくいものを可視化しているだけであって、その脳波の分析結果をもって「これが禅だ!」ということには決してならないわけです。

2. 禅は「具体的で個別的」、科学は「抽象的で汎用的」ってどういうこと?

これは「再現性をどこまで求めるか」ということです。

「具体的で個別的」とは、平たく言うと「本人限定」ということです。本人にしか適用できない、本人にしか意味がない答えであり、その答えは他の人には適用できない、意味がないわけです。「再現性ゼロ」です。

「無門関」のような禅問答集を見ると、大昔の偉いお坊さんが「世界の真理」を知った瞬間、つまり”悟り”を得た瞬間のエピソードが書いてあるのですが、どの悟りゲットエピソードを読んでも

「えっ!?この人、今ので悟り得ちゃったの?なんで??」
「マジでそんなことで悟れるもんなの?」

とツッコミたくなるものばかりです。
(これが「禅問答」=「意味不明www」といわれる所以でもあるのですが)

そこに書いてある「悟りゲット」の瞬間というのは、全くドラマチックなものでもなく一生に1回のレア体験っぽいわけでもなく、日常的な何気ないことに見えて、何なら自分でも同じことができそうなことであり、でも自分が同じことをやったところで悟れるとは到底思えないのです。これが禅が「具体的で個別的」であるということです。

実際にどんなきっかけで悟りを得ていたのか、ここでは紹介しませんが興味があれば禅問答を読んでみてください。人によってバラバラです。

一方、科学は抽象的で汎用的であることが求められます。これは客観性という土台から見ても感覚でわかると思います。この話で真っ先に思い浮かぶのが「STAP細胞」です。STAP細胞の発見者である小保方さんは「STAP細胞は、ありまぁす」と主張し続けていたわけですが、小保方さん以外に再現性がなかったため捏造と認定されました。真偽のほどはわかりませんが。

このように、禅は「再現性ゼロ」が当たり前なのに対して、科学は「再現性100%」であることが求められます。(ていうか再現性100%じゃないと科学では真理として扱われない)

3. 禅は「経験・体験」、科学は「理論」ってどういうこと?

これは、「どうやって他者に伝えるか」ということです。

禅は上で述べた通り「再現性ゼロ」なので、「いったいどうやって答えを知ったの?」と聞かれても本人にも伝えようがありません。まさに小田和正ばりに「言葉にできない」のです。その証拠に、禅にはキリスト教やイスラム教のような「経典」がありません。文字で残しても意味がないからです。

では一体どうやって禅を代々伝承していったのかというと「経験・体験」で伝えたわけです。

以前投稿した「日本人の勤労観の原点」という記事の中で、世界最大の禅宗・曹洞宗を開いた道元さんの「老典座とのエピソード」を紹介しました。決して禅のテキストを勉強したり禅の講義をすることだけが修行ではなく、日々のすべての経験が悟りに至る修行であるという話でしたが、まさにこれです。

一方、科学は「再現性100%」であることが求められるので、必然的に「その答えに至った方法」も、簡潔にその成果が横展開できるようにすることが求められます。これが「理論」です。数学や物理の教科書に載っていた「三平方の定理」や「ケプラーの法則」「熱力学法則」が理論です。もちろん万有引力や相対性理論も。

4. 禅は「行動」、科学は「言葉」ってどういうこと?

これは「答え探しの最初のアクション」ということです。

「経験や体験」というのは必ず「行動」が起点です。行動なき経験や体験というのはあり得ません。つまり、やる前から頭でっかちにあれこれ考えたりせず、まず行動を起こして実際に体験せよ、真理探究はそこから始まる、というのが禅がとる姿勢です。

一方、科学はまず「言葉」から始まります。「言葉」は「思考」と置き換えるとわかりやすいかもしれません。頭の中で「言葉」を使って「思考」するところから真理の探究が始まるわけです。

5. 禅は「智慧」、科学は「知識」ってどういうこと?

これは、答え探しの過程で「何を獲得していくのか?」ということです。

「智慧」は仏教用語で、厳密には一般的に使われる「知恵」とはちょっと違い、世の中のあらゆる真理を見極める力のことです。個人の体験を元に内面から生まれる身体知や経験知みたいな感じでしょうか。英語でいうとWisdomが近いと思います。

一方、「知識」とは単に「あらゆる物事について知っていること」です。クイズ王と呼ばれる方は、この知識の量が物凄いということになります。英語でいうとKnowledgeが近いでしょうか。

まとめ

ということで、私のメモにあった禅と科学の対比表に観点をうめると以下のようになりました!

さいごに

今回、「科学」という表現を曖昧に使ってきましたが、科学には「人文科学」と「自然科学」があり、この記事の科学は後者の「自然科学」の意味で使ってきました。人文科学には、心理学とか社会学とか歴史学とかそういう系の学問が含まれます。

なぜこんなことわりを入れているかというと、同じ科学でも「人文科学」の方には「禅」に近い真理探究のアプローチをしている分野があるからです。(例えば「心理学」や「経済学」など)。

最近、『20世紀までは「自然科学」が世界をリードしてきたが、21世紀以降は「人文科学」と「自然科学」の統合が必要である』なんて話を見聞きますが、そうはいっても「人文科学」も科学の範疇であり、禅に限らず非科学領域との統合を図るべき時が来たんじゃないかなーと思います。

おしまい。

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