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毎日カメラを持ち歩いてみて。

2024年が始まって2週間くらいが経つ。

昨年2023年は、毎日カメラを持ち歩いて、写真を撮ることを目標としていた。なんとなく決めたこの目標について、毎日写真を撮ったことについて、いつか言葉に捻り出しておきたいと思いつつ、年明けを迎え、気づいたら1月も半ばである。365日の24分の1が終わるころだ。

1年という時間の長さは、「まさにこれぞ1年!」と直感的に言い当てられるほどの何かがあるわけでもなく、捉えどころのないものであるという認識だ。1日が365回繰り返されたら、1年が終わる。ということは、頭で理解していても、いざその時間の長さを掴もうもんなら、指の間からするすると抜け落ちていく感覚になる。

うだうだ言ってないで、とりあえず365枚の写真を見返してみる。

1月19日

軽くはないカメラを毎日リュックに入れて1日を過ごす。最初の頃は、荷物と感じることも少なくなかった。


2月5日


2月19日

特に義務感を感じることなく、今日はどんな写真が撮れるかなと、ワクワクする気持ちが大事になってくる。


3月12日


3月24日

春が近づき、季節の移り変わりに敏感になる自分。それと同時に、知らない植物が多すぎるという気づきも。


4月20日


5月3日


5月25日


5月31日


6月16日

こんな日もあった。あんな日もあった。なんだこの写真は。ああこの写真ね。カメラロールをスクロールすれば、その日、その時、自分が見た風景が頭の中に立ち現れる。


7月12日

確かに自分は、その時、その場所で、足を止め、カメラを取り出し、シャッターを切った。その記憶を思い出すための装置として、1枚1枚の写真は機能する。


7月22日

シャッターを切るという行為の前後の記憶まで鮮明に思い出せるかは、写真によってまちまちで、どこかへ行く途中の道で、時間はだいたい何時くらいで、気温はこのくらいで、という具合に、1枚の写真から蘇る周辺の記憶には何段階か階層があるように思う。


8月21日

しかも、おもしろいのは、その写真が、明確に◯月◯日に撮られた写真であることにあまり意味はなく、その写真さえ見なければ、特に名前のないその日付まで意識することのないということである。


9月1日

1年とは、そんな名もなき日々の積み重ねで出来上がっている。1日1日の記憶が捉えどころのないものであれば、その積み重ねである1年という時間の長さも捉えることができないのも納得だ。言われてみれば、そりゃそうだ。無意識のうちに積み重ねた日々を、写真を見ることで思い出し、意識のうちに呼び起こすことができるのだから。


9月15日


9月24日


10月5日

毎日同じことを繰り返すこととは、そういう営みのために意味があるのではないか。「ルーティンは大事」とは言うが、これはいつの日か、ふと、「ああよくここまできたな」と年の功を感じる瞬間のためにあると気づく。

2023年の僕にとって、それは毎日写真を撮ることだった。しかし、それは必ずしもそうである必要はなく、朝起きること、夜寝ること、美味しいご飯を食べること、面白い本を読むこと、ささいなことでも日記に書くこと、ごみを出すこと、植物の成長を見守ること、季節の変化に気付くこと、挙げればきりがないが、いくらでも代わりになることが無数にある。


10月12日


11月8日

日々の積み重ねに無意識になるために、日々そのためにできることを意識的に取り組もう。つまらない毎日でも、二度と同じ日は来ないわけだから、ご縁とおせっかいに流されるまんま導かれて、気楽にたゆたおう。


12月22日

これが、わたしだけの365日なのである。なんだか、いいことをやってのけた気分になる。しょせん、そんな程度のことだ。小さな目標だったけど、いつか自分を支えてくれるのだと思う。

なんだかんだ最近でも、カメラはリュックの中で毎日運ばれている。

僕のリュックの中は、未だ年越しを迎えられていない。


(あとがき)

最近、言語化することの無目的的さについて隣人と論じた。なんでもかんでもこねくり回して言葉に着地させる行為の儚さや尊さなど話題は尽きない。自分事として振り返ってみると、昔より言語化するために必要な体力が落ちた気がする。少なくとも1年前よりは、言葉にすることへの戸惑いと躊躇いが、どしっと体にまとわりついたように思う。

ただ、こうやってとりあえず形にしておくことに何かしらの意味があると信じて、2024年1月時点での自分の戯言として、ここに残しておく。

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