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ウィンカーとワイパーを間違えていきたい。

10月5日。一緒に暮らしていた母方の祖父が亡くなった。

急性心不全。最期はお風呂に浸かっていたらしい。

その日はちょうど、大学の秋学期が始まる日で、僕は午前中から外出していた。

まさか、朝起きて「おはよう」と挨拶を交わした人間が、その日の夜に帰宅すると、帰らぬ人間となってソファの前に横たわっているとは、考えもしないわけだが、意外と何気ない日常の中に「死」は隣り合わせで付きまとっているのだと気づかされる。

母親からのLINEで知らされた僕は、その日一日、どんな顔をして家に帰ればいいのかよくわからない状態でふわふわしていた。覚悟はしていたが急な知らせだったので、あまり現実味が湧いてこないというのも正直なとこだったと思う。

22時過ぎに、家について玄関のドアを開ける1秒前に、壁越しに伝わってくるお線香の香りが嗅覚を刺激したとき、脳からの信号が視神経を逆流して目を濡らしかけたが、いざドアを開けると、忙しく電話に追われる祖母の声が頭の中を塗り替えて、現実に起きている話であることを実感した。

近くに住んでいる親戚が家を訪れていて、普段より靴の数が多い玄関が、有り難くない奇妙な盛り上がりを教えてくれた。

テーブルの上に置かれていた「訃報」と印刷された紙は、おそらくテンプレの名前や日時だけが変更されただけの紙だろうが、そんな紙っぺら1枚と引き換えに、家の中に確実に宿っていた何かが蒸発してどこかへ消えてしまったように感じた。


それでも時間は進み、日常は続く。

日が沈み、日が昇り、僕の腹は減るし、トイレにも行きたくなるし、夜になれば眠くもなる。

もう着る人のいない服。もう食べる人のいない介護食。もう座る人のいない椅子。タンスの中。冷蔵庫の中。リビングルームと、代り映えのない日常が過ぎ去るだけなのに、どうにもならない悲しみが、家の中のそこここに降り積もり始める。

祖父は死んだのではない。いなくなったのだ。

ここ約半年間、祖父母と3人で暮らしていて、ほぼ毎日顔を合わせていたような人が急にいなくなる、もう会えなくなるというのは、これまで生きてきて初めて経験することだけに、強烈な記憶として刻み込まれた。


老衰のため、顔の筋肉もほぼ変化がなく、表情から喜怒哀楽を感じ取るのが難しかった祖父だが、最後に笑みを感じたのは、夏休みに僕が祖父の車で祖母とドライブして帰ってきた後、「事故なく帰ってこれたよ」と報告した時だったと思う。

祖父の車は、20年以上前のベンツだから、少し扱いが普通車と異なるところがある。

その中でも特に、ウィンカーとワイパーは、ハンドル裏の左右のレバーが普通車のそれと逆のため、一度体に癖が染み込むと直すのが難しい。ハイビームの照らし方も、操作がよくわからなかったから、後日、祖父と一緒に車に乗り込んで付け方を教えてもらったりもした。

先月、旅行先でレンタカーして運転したときに、ついついウィンカーとワイパーを間違えると、車に明るい友達が助手席から懲りることなく毎回ツッコみを入れてくれる。これは外車じゃないぞ~、と。その度に僕は、今となっては祖父の形見であるベンツのことを、どうしても思い出してしまう。不意に祖父のことを、思い出してしまう。


この文章は、お通夜と告別式が一通り終了し、やっと気持ちの整理が一区切りしたタイミングで文字にすることができている。

1週間前の自分は、1週間後に自分がこんな文章を書くことになるなど、微塵も想像していなかった。ここまでの1週間は、葬式の手続きやら何やらで、常にせわしない祖母の様子を見ながらに生活をしていたから、何かと「心ここにあらず」といった感じだった。

最近は、大学への通学の移動時間がちょっと辛い。なぜなら、街を歩く人も、ホームで電車を待つ人も、公園で散歩をしている人も、視界に入る人間がみんな活き活きと生きているから。

生物の進化の過程で「生きよう」と志した生物だけが生き残ったのだから、生きている人間が死を恐れ、生を志すのは当然のことだと自分に言い聞かせても、すんなり呑み込め切れないことがある。

何事もなければ、あと約60年は生き続けることになる。未だ巨大すぎる人生が、茫漠とした時間が横たわっていると考えると気が遠くなるのだが、せいぜい毎日の小さな幸せを拾い上げては、「こういうのでいいんだよ」と、ささやかな日々を特別な日々に着せ替えたい。


暑くもなく、寒くもなく、ずっとこんなちょうどよい陽気が続いてほしいと思える日が、ぽつぽつと訪れ始める10月の半ば。きっとこれから毎年、夏が終わり、少し涼しくなり始めたころに、祖父との別れを体の芯から無意識的に意識してしまうようになるのだと思う。

でも、「ずっとこんな日が続いたらなあ」と願えるのも、燃えるような夏の暑さと、凍えるような冬の寒さをこれまでに何度も経験してきたからこそ芽生える願いなのだと思う。

そうやって年を積み重ねることで、目の前の風景や、今の天気、あの時の何気ないツッコミから幸せを感じ取るアンテナが育つのだと思う。

だから僕は、そのようにして年を積み重ねたい。

例えば、ウィンカーとワイパーを間違えたりすることで。

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