全く新しい軽井沢の楽しみ方
この旅行記は前作の山梨・長野編からの続きとなっています。
前回は中山道・奈良井宿を朝一番に散歩して塩尻駅まで戻ってきたところまで書きましたので、今回はその続き、松本・篠ノ井を経由して、軽井沢まで向かう途中から書き始めます。
塩尻駅を朝の9時過ぎに出発する松本行の篠ノ井線に乗車して、まずは松本まで来ました。乗り換え時間を利用して、駅中のお店で長野名物のおやきを購入しようとしたのですが、まだ朝の早い時間で売っていませんでした。
松本駅のこのコンコース、西に聳える山々を見通せるスケルトンな構造になっていて素敵な駅舎だなと思いました。
さて、ここからはさらに篠ノ井線で北上して、篠ノ井を目指します。途中、日本三大車窓で知られる「姨捨」を通るため、眼下に広がる善光寺平や段々畑の景色を見ることができました。
篠ノ井駅でしなの鉄道に乗り換えて、さらに1時間半揺られて軽井沢駅に到着です。軽井沢駅で友達と合流することになっており、そこから本日のメインイベントである碓氷峠ウォークが始まります。これこそが、僕が考える「全く新しい軽井沢の楽しみ方」です。
どうやら乗車していたこの列車、塗装が珍しいやつらしくホームで写真撮影されているマニアの方がたくさんおられました。
まずは、軽井沢駅から軽井沢銀座商店街の方を目指します。
週末の軽井沢はこの賑わいようです。流石、避暑地として名高い軽井沢ですが、この場所が中山道のかつての宿場町であることに心躍らせている人はこの場に僕くらいしかいなかったでしょう。今からその旧街道巡りをしようというのです。
秋真っ只中な高原の気候は10月中旬ですが、街路樹が見事に紅葉しています。
軽井沢銀座通りをまっすぐ進むと、いつのまにか緑深い山道らしい雰囲気になってきます。道に建っている立派な旅館には「中山道」の文字が。いよいよここから本格的に山道を歩いていきます。
今日は、この軽井沢宿から一つ江戸方にある坂本宿というところまで中山道の難所と呼ばれた「碓氷峠」を越えて歩きます。途中、観光名所が点在していますので、過酷ですが満足感と達成感のあるハイキングになりました。
また土木マニアとしても鉄道の難所である碓氷峠には一度でいいから歩いてみたかった場所でもあったので、感じる疲労よりも楽しさが常に勝っていた気がします。
かろうじて人の歩いた跡があるので、歩けますが、まさに「獣道」といった感じの道なき道を進むと、木造の立派な吊橋が見えてきました。渡ると揺れましたね。
さっきまで人でごった返していた軽井沢とは全く異なる静かな空気が、この森には流れていました。冬眠し始めた熊でも遭遇するんじゃないかってくらい周りの音は聞こえてきません。一緒にいた友達とわざと大きな声で会話して、できる限りのクマ除けを励行します。
最初はハイペースで進んでいましたが、徐々にペースも落ちてきます。しかし、振り返ると木々の間から見える眺望が確実に標高が高くなっていることを伝えてくれます。1時間くらい登り続けて、やっと開けた見晴台に到着しました。
「見晴台」と名前を冠しているだけに見晴らしは最高です。具体的にどれが何であるかはわかりませんが、方角的に穂高連峰とか立山・乗鞍の山々の稜線が幾重にも重なって、これぞ「日本アルプス」といった感じの眺めを見ることができます。
実はこの見晴台はちょうど長野県と群馬県の県境が跨っており、県境を跨ぐ移動がし放題の場所にもなっています。「軽井沢」って意外と長野県内でも群馬寄りに位置しています。ということでここから先は群馬県となります。
紅葉もきれいです。
見晴台の近くにある「熊野皇大神社」はとても面白い神社です。この旅で一番楽しみにしていた観光地と言っても過言ではありません。
こちらの写真をご覧ください。なんと境内が県境によって分断されています。確かに不自然に階段に建つ灯篭のデザインを左右で違いました。
実はこの神社は、長野県と群馬県がそれぞれ土地を分け合って半分ずつの違う神社から成り立っています。お賽銭箱も2つあります。何から何まで不思議です。
この神社の向かい側にある「しげのや」にて名物の峠の力餅をいただきます。数十分並んで待ちましたが、これを食べるためにも峠ウォークしてるようなものなので、食べないという選択肢はありませんでした。甘酒と一緒にいただきます。
お腹も満たされたら、今日のゴールである坂本宿・横川駅まで再び歩き始めます。実はまだ横川駅までの3分の1くらいしか来ておらず、ゆっくりしすぎました。このままいくと陽が沈んでしまいます。ちょっとペースを上げて峠道に入っていきます。中山道はこっち。
ずっと同じような山道が続きます。事前に調べたところによると、山ヒルが出て、血を吸われるとあったのですが、もう寒いからなのか誰も山ヒルにかまれることはありませんでした。廃バス(?)のようなものが突如として現れ、一気に不気味さが増してきます。
少し進むと、このような分岐の案内が立っています。
ここを同じく坂本宿方面に進むと中山道を辿ることとなりますが、ここで道を外れて「めがね橋」を見に行くこととします。おそらく「碓氷峠」と聞いて最初に思い浮かべるだろう、あの立派な橋のことです。碓氷峠に来たからには一目見ていかないといけません。
しかし、この中山道から外れてめがね橋へ至る道は安全が保障されていない等の説明書きがあります。どうやら熊の生息区域らしく、小川を跨いでいかないといけないらしいのです。しかし、ここで躊躇っていては碓氷峠に来た意味がありませんから、右の道へ進むこととしました。時刻は16時半を回っています。陽が沈むまであと1時間。
木漏れ日がきれいだねぇと言っている場合ではありません。木漏れ日が見えるということは、もうその角度で日光が入射してくる時間帯であるということです。
確かに、小川を渡らなければいけないところがありました。道もぬかるんでいて、足の踏み場もないとはまさにこのことです。持ち前のバランス感覚と身軽さで、安定した岩に頼って跨ぐしかありません。
日が暮れる寸前の17時半ごろ、やっと見えてきました。めがね橋です。
この少し手前に、いわゆる普通に「川」を渡ることをしましたが、急いでいたため、ひょいひょいと超えてきてしまいました。到着したところで、まずはこの橋の正体、何がすごいのかについて説明します。
碓氷峠はかつて信越本線によって横川~軽井沢間を結ばれていました。アプト式という当時の最新の技術を駆使して、勾配に弱い鉄道をなんとかして走らせようとしていた区間です。現代ではこの峠の真下を北陸新幹線が走っていますが、なぜ明治の時代にこんな山奥に鉄道を通す必要があったのでしょうか。
その理由はカイコにあります。長野県で盛んな養蚕業の産物である生糸を、港町・横浜から全世界へ輸出するためであるのです。富国強兵を掲げた明治期の日本が、世界を相手に貿易するために選び抜いた輸出品が、内陸部で採れる高品質な生糸でした。この峠は、諏訪地方で取れる産物を軽井沢から信越本線、高崎線、八高線、横浜線などを経由して、今のみなとみらいの赤レンガ倉庫まで運ぶために急ピッチに開発されるべき場所だったのです。
世界と肩を並べるためにカイコを輸出しようと建設されたのが、このめがね橋なのです。この橋にあるこのような背景を知ると、ただのレンガのアーチ橋以上の魅力が感じられませんか?
陽も沈んでトンネル内の照明がノスタルジーを醸し出しています。天井が真っ黒なのは、ここを機関車が煙をもくもくと吐き出しながら走っていた証拠でしょうか。もはやトンネルの外側の方が暗くなったこの時間帯は、出歩くのにふさわしくない時間だと思いますが、この恐怖がスリルを増大させて、忘れられない思い出となるのも、間違いないことです。
道の駅でおぎのやの「峠の釜めし」を購入して、さらに1時間ほど歩きやっと横川駅に到着しました。軽井沢駅から約15kmに及ぶ街道観光は無事、幕を閉じました。
帰りの信越本線の中で、先ほど購入した「峠の釜めし」をいただきました。今まで何回か食べたことがありますが、この時に食べた峠の釜めしが今までで一番おいしかったです。
と、こんな感じで、鎌倉から始まった過酷な2日間の秋の小旅行が終わろうとしています。
これは、どんな旅にも言えることですが、旅は時に試練であり、修行であり、苦行になることもあります。しかし、過酷であればあるほど、のちに素晴らしい思い出として記憶に残るのです。0限に鎌倉観光に行ったり、沈みかけた夕暮れ時に碓氷峠を彷徨ったことは、危険こそ伴いますが、一生忘れない記憶として残る可能性は大いにあると言えるでしょう。
最後に、この歌を紹介して2日間の小旅行記を締めたいと思います。その歌とは、長野県の県歌「長野県歌」です。6番まである歌詞の内、3番までの歌詞に長野県の魅力が凝縮されていて、好きな歌の一つです。
1番
2番
3番
聞くと長野県が好きになります。ぜひ一度聞いてみてください。
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