KMNZはどのように『ギャップ』を生み出したのか-jinmenusagiとばあちゃるの発言から-②「魂の輝き」編


Vtuberと「ゲイン-ロス効果」の関係性

-ばあちゃるの言う「魂の輝き」を象徴するもの-

 筆者はバーチャルyoutuber(以後vtuber)の魅力の最も大きいウェイトを占めるものとして、前回の記事で「ギャップ」を取り上げた。
 さて、これを読んでくださってる皆様は「ギャップ」と言って、どのようなものを思い浮かぶだろうか。
 主に創作作品における「ギャップ」について一番わかりやすいものでは、「ジャイアン映画版の原則」がある。


 筆者は幼いころにドラえもんの映画をよく見ていた。家にあったVHS(今は知らない人も多いのかも)で姉としばしばみていたのが「ドラえもんのび太の南海大冒険」である。
 宝を見つけるため、海に駆り出したいつもの五人組。しかしいつの間にか時空のゆがみによって、現代から海賊のいる時代にタイムスリップしてしまう…という作品だ。
 この映画の中において、のび太が巨大な海賊船と乗っていた船が衝突。船から海に放り出されそうになってしまう。その時、ジャイアンはのび太の手をがっしりと握りしめる。この時のセリフがこれである。

「のび太、しっかり!手を離すな…!!」
------ここでのび太が波に流され、悲鳴を上げながら海の中に消えてしまう。
「のび太ぁぁぁぁ!!!…」

「ドラえもん のび太の南海大冒険」 藤子プロ・小学館・テレビ朝日より引用

 ドラえもんにあまり詳しくない方のために説明すると、ジャイアンは普段、のび太への当たりは本当に強く「新品のバットを買った、殴らせろ」と言ったりするなど、まさに横暴の極みなのである。
 筆者はそんな普段のジャイアンを知っているからこそ、この映画版のジャイアンのワンシーンによって、「ジャイアン、あんなふうにしているけどやっぱりのび太のことは友達だと思ってるんだなあ、いい奴だなあ」と思わされてしまった。
 しまつによると、ジャイアン映画版の法則とは、「日常回ではのび太をいじめるヒールのくせに劇場版になると急に男気を見せてかっこよくなる男、ジャイアンこと剛田武になぞらえその名がついた法則である。普段の行いが悪い人はたまに良いことすると数倍マシでよく見える」ことを指すという。

 「ジャイアン映画版の法則」しまつ より引用]


 このように、例えばそれまで冷たい態度だったり、ジャイアンのように横暴な態度だったりを取っていた人が急に優しくなったりすること…つまり、それまで持たれていたイメージに対して、反対の行動を行うことで、ずっと優しく接するよりも好意的に捉えてしまうことを「ゲイン-ロス効果」と呼ぶ。

  「社会的場面における人間の非言語的な行動と親和性の向上」大坊郁夫 より引用

 筆者はvtuberたちの人気の裏にこそ、この「ゲイン-ロス効果」が大きく作用しているのではないかと考えている。 

本人もvtuberでありながら、vtuberに対する考察を主に活動している佐藤ホームズはvtuberの魅力に対して「不完全だからこそ、いくらでも成長できる、変化できる、リアルタイムで意図せず物語を作ることができる」ということを述べている。
 そして、この「不完全」は意図して作れるものではないことも結論の中で述べている。

 「Vtuberは「不完全」だからこそ面白い【佐藤ホームズの考察】」より引用
 
 この「不完全」は、vtuberというコンテンツに明確な「作者」が存在していないからこそ発生するものだと、筆者は考えている。
 前述のジャイアンのような行動は、ジャイアン本人が行っているように見えて、実態は「のび太を助けようとジャイアンを行動に移させた作者」によって行われている行為なのである。
 しかし、vtuberはホームズ氏が述べるように「生きたアニメキャラクター」と呼ばれる存在である。もちろんキャラクターである限り、彼や彼女たちの中には「中の人」が存在している。少しメタ的な話になってしまうが、vtuberがどのように動いているかなどのメカニズムはすでに多くのメディアなどで語られている通りだ。

 話を少し移すが、これまで「中の人」と「キャラ」の距離、さらに厳密にいうとすれば「三次元」と「二次元」を縮めようとする動きが多々、アニメやゲームなどにおいて見られた。
例えば、90年代後半に発売されたSEGAの「サクラ大戦」はキャラを演じた声優が、ミュージカルなどで三次元でそのキャラを演じることで「キャラをミュージカルを通して三次元のその場所にいるように見せる」ことを可能にした。シリーズのプロデューサーである広井王子はサクラ大戦のミュージカルにおけるラスト公演の際に、公式サイトでこのようにコメントをしている。

「10年目の夏がめぐる。ゲームキャラクターを舞台化する夢を想い描き高い山に登ってしまった。多くの方々の協力と応援と愛に支えられて、幸運にも10年の長きにわたり歌謡ショウを毎年開催することが出来ましたことを感謝いたします。」

「サクラ大戦・歌謡ショウ ファイナル公演『新・愛ゆえに』」サクラ大戦ドットコム より引用

 広井のこの発言から見るように、ゲームのキャラクターを「舞台」という三次元の世界に登場させることの成功は、この「三次元」と「二次元」の距離を縮めることの成功を意味していたといってもいいだろう。(アイドルマスターやラブライブなどのアイドルコンテンツもこれに近い?そう考えるとサクラ大戦の功績は計り知れない)

 2000年代に入り、さらにこの「距離を縮める」動きは活発になる。
 ニンテンドーDSで発売されたKONAMIの「ラブプラス」はキャラたちと実際に付き合い、コミュニケーションを取りながら、実際の観光地とARマーカーなどを用いて連携することによって「DSを仲介にして、二次元の彼女と付き合っているような体験ができる」ことを達成した。

 「「ラブプラス+」のカノジョと、「現実」の熱海バスツアーに行こう!」 techsightより引用

 しかし、これまでの流れはどうしても「三次元」に「二次元のキャラクター」を連れてくることであり、そのキャラクターの中にはどうしてもそのキャラクターを「演じている別人」である「中の人」の存在があった。
 さらに、ラブプラスのような恋愛シミュレーションゲームにおいても、こちらから与えられた選択肢であっても、自由なことであっても、こちらから彼女たちに呼びかけたところで彼女たちの返答はあらかじめ収録された膨大な量の「回答の際のプログラム」であり、どうしてもそこには彼女たち自身の言葉ではない、彼女たちのセリフを作る「作者」の存在があった。
 こういった「作者の存在」が必須であったこの二つの空間の交流の進化の過程に対し、vtuberは違うアプローチの仕方で「二次元」と「三次元」の溝を埋めつつあると考える。
 それが、今回の副題でもある「魂の輝き」の存在である。

 ではそのヒントとなる、9月下旬に行われた東京ゲームショウ内で行われた日本経済新聞による電脳少女シロ・ばあちゃるへのインタビューを見てみよう。

 このイベントの概要について、日本経済新聞のこのインタビューにおける記事によると、

「人気Vチューバーを会場に招き、日経ビジネスのベテランデスクと対談する企画」と題し、「デスク自らがその場で美少女Vチューバーに変身し、バーチャル空間の対談を中継するという内容」であり、300人もの聴衆を集めたという。

「Vチューバーに沸く にじむ人間性、魅力に 」日本経済新聞公式HPより引用

※このインタビューはとても見ごたえがあり、シロちゃんとばあちゃるへのこれまでだったりとかいろいろ聞けるのでおすすめです。

 日経ビジネスの副編集長、山中浩之によるインタビューにおいて、「アイドル部」のプロデューサーであるばあちゃるは、このように述べている。

山中氏「では、プロデューサーとしてのばあちゃるさんにお聞きしたいのですが、VTuberの世界観はどういう点を大事にしていけばいいと思いますか?

ばあちゃるさん「なかなかシビアなところをついた質問ですねぇ。あくまで、ばあちゃるくんの所感ですよハイ。個人の場合は、え~、なんといえばいいんですかねぇ。VTuberさんを構成する魂の部分とでも言いましょうか、その体験などに依存されます。企業さんの場合は魂の方々がそこまで影響しないので……、設定とかをですねぇ…しっかり考えることが多いわけですハイ。個人的にはハイブリッド型がいいと思っているので、そこを目指したいですね。魂の輝きにも依存しながら活動していくのことが、みなさんが楽しめる世界観の共有になるのではないかなと思います。言葉を選んでいるので、ちょっと伝わりづらいかもしれませんがハイハイハイ~」

ばあちゃるさんは口ごもりながら話していたが、要するに個人でVTuberを運営している場合は“中の人”の経験などが個性を生み出し、企業が制作している場合はしっかり“キャラ設定”を行う傾向が強く、理想的なのは「キャラ設定と“中の人”の魅力が掛け合わされること」という理解でいいだろう。

「魅力的なVTuberの世界観とは - シロさん×ばあちゃるさん、VRインタビュー」 newsinsightより引用

 山中副編集長の質問に対して述べているように、ばあちゃるは理想の形として従来の漫画やアニメ、ゲームのような「世界観」をある程度提示したうえで活動を行うやり方とvtuberの中の人…つまり「魂」のそれまでの経験、さらには個人個人の価値観を生かしたトークなどを重視するやり方のハイブリッドを目指していきたいと語っている。

 従来、これまで述べてきた二次元と三次元の間の溝を埋めていこうとする過程において、「キャラクター」と「中の人」は違うものとされてきた。「キャラクター」を演じるのが「中の人」であり、「中の人」がこれまでどのような経験をしてきたかなどは考慮されず(キャラの選考に中の人の経歴が関与する場合はあるものの、である)あくまでも「作者」が提示したキャラの価値観に従い、それを演じてきた。さらに我々三次元とのかかわり方としてはどうしても「作者サイド」が作り上げた「あらかじめ用意された返答」による「疑似的な会話」しかできなかった。

 しかし、vtuberの場合。ばあちゃるは「中の人」と呼ばず、彼や彼女たちを「魂」と呼んだ。これには従来の「キャラ」と「中の人」の関係性にvtuberが当てはまらないからなのではないか、と筆者は考察する。

 ばあちゃると同じグループである.LIVEの一員でもあり、「四天王」の一角でもある人気vtuber電脳少女シロは、最初に投稿した動画においては「武道館でアイドルになること」を目標に掲げ、とてもかわいらしい、おしとやかな…「清楚」として現れた。だが、前回の記事でも述べた「12月の爆発的流行」の際に、彼女の魅力として人々が食いついたもののひとつとしては「FPSでぶっ飛んだ発言をするかわいい女の子」であった。(もちろんイルカボイスなどもあるが、ここでは割愛させてもらう)

 この、自己紹介動画における、企業側が設定した当初の「電脳少女シロ」の設定と、彼女がバズのきっかけとなった「ぶっ飛んだ発言」は、一見するとキャラ崩壊とみなされてしまう。仮にマンガなどであったら支離滅裂ともとられてしまうかもしれない。だが、vtuberとなると話は変わってくる。

 ジャイアンがのび太を助けようとしたのは、「ジャイアンがのび太を助ける」ことをストーリーの中に組み込んだ「作者」によるものである。しかし、シロが「ぶっ飛んだ発言」を行う際には、その行動は「シロ本人」によって行われたことだ。ここに「作者」の存在はない。

 つまり、vtuberはそれまで存在していたストーリー、特に魅力を大きく見出す「ギャップ」においては、「作者」という「話の中で見えない存在」によって作り出されるのではなく、そのキャラに与えられた「設定」に対し「魂」本人の要素を提示することによって「ギャップ」を生み出すことに成功しているのである。こういった「ギャップ」が生まれる過程にはシロのような動画型もあれば、視聴者との配信などにおけるやり取りの中でも生まれることがある。vtuberたちは「与えられた設定」と「魂の輝き」の「不完全さ」によって、人々に注目される存在になった。この動きは従来のアニメやゲームにおける「キャラクター」を「中の人」が演じることとは違っている。「キャラクター」≠「中の人」であるが「vtuber」≒「魂」となるのである。(完全な=ではない理由は設定やキャラに沿ってある程度世界観が決められる場合があるため)

 これによって、視聴者たちは「誰が見てもかわいい」というような「清楚」「アイドル志望」である「電脳少女シロ」のイメージとは大きく反する「ぶっ飛んだ発言」によるギャップにより、俗にいう「やべーやつ」として彼女に注目。これは、最初から「やべーやつ」であるよりもそれまでオーソドックスな「アイドル志望」としての活動と、そういったことは絶対言わないような、かわいらしい見た目があったから取得できたギャップなのである。

この「魂の輝き」による「キャラ設定」と大きくかけ離れた言動による「ギャップ」電脳少女シロが12月の波に乗り、大きくバズる原動力となったのである。

「ジャイアンとシロちゃんのギャップの違い」筆者作成

 vtuberたちは今後も、この「魂」と「設定」の「不完全さ」によってギャップを手に入れていき、そして多くのファンたちを魅了していくだろう。本題からだいぶ外れてしまったが、次からはKMNZがこの考え方に沿ってどのように「ギャップ」を獲得していったかについてみていこうと思う。

はじめに
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