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続・生と死のアピアランスケア

理事を務めている一般社団法人日本臨床化粧療法士協会(ICTA)の年度末公開講座が無事終わったので備忘録。
思ったことを書き連ねただけなのでまとまりはない。

先日書いたこのnoteの方が講師

葬祭業は、「はじめまして」がご遺体
ご家族様が想像する顔は、関係性やどこで最期を迎えたかによって違う。
何年も前かもしれない。
ずっと介護をしていて、闘病を見守っていたかもしれない。
入院して、しばらく会えていなかったかもしれない。
「隠してほしい」の感覚は人によって違う。

たくさんの「違う」がある。
誰と違うか?「私」の感覚と違う、「一般的な」感覚と違う、その方だけ、そのご家族だけが持つ感覚。
アインシュタインが言うように、「普通」は、18歳までに作られた偏見のコレクション。
だから、家族の、昔から知っている誰かの「普通の顔」「普段の顔」は、その方たちだけがもつコレクションなんだろうなと。

”美しい”ことが”正解”とは限らない。
”わたし”の中に”正解”を求めない。

私自身、お化粧ってひとつの社会参加、コミュニケーションだと思う。
最近ネトフリでクィア・アイっていうのを視聴していて、ファッション担当のタン・フランスのコミュニケーションの取り方が素敵だなあと思ったんだよね。
洋服をすすめるとき、試着した後に、自分の感想を先には言わずに、必ず相手に求める。相手がどう感じたか、それをまずちゃんと聞いてから、会話を始める。
その話し方を見ていてすごく勉強になるなって思ったし、この番組に出てくるタン・フランス以外の4人もすごく素敵なコミュニケーションをとる人たちだなと思う。
もしかしたらそれは、彼ら自身が「クィア」と言われる側に属しているから、自然とそういうコミュニケーションを身に着けているし、自然に扱えているのかもしれないなぁ、など。

クィア(: Queer)とは、「不思議な」「風変わりな」「奇妙な」などを表す言葉。同性愛者への侮蔑語でもあったが、1990年代以降は性的少数者や、LGBTのどれにもにあてはまらない性的なアウトサイダー全体をも包括する用語として使われている。
ウィキペディア(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%82%A3%E3%82%A2)

最近よく目にする『誰一人とりこぼさない社会のために』というキャッチフレーズ、めちゃくちゃモヤモヤするのだけど、それとはまったく違う真逆のコミュニケーションで彼らは誰かのそばに立っているなあと思う。
とりこぼさない、って神の視点の言葉だと思うんだよね。
しかも、自分はすくい上げる側に立っていると”自認している”側の。
とりこぼされた、という体験をしてこなかった側の発言に聞こえてしまって、目にするたびにモヤモヤするんだよな…(ただのひとりごと)

そういう意味で、今回も
『私の中に正解を求めない』
という金言を得て講座は終了。

他にもいろいろ聞いたけど、有料イベントだったので、個人的感想としてはこれくらい。

だいたいそんな感じ。

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