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"The LEPLI" ARCHIVES-52/ 『モードを語るとは,モードを評論するとは?』—弐。

文責/平川武治:
初稿/2011年9月 5日:

『表層のボキャブラリーに潜む本意に気づく事。
評論とは持ち得た”知識”のみで媚びる事ではない。』

 評論の眼力とは、
メディアを鵜呑みにするのではなく、
書かれた評論を妄信するのではなく、
『誰が』『いつ』『誰に向けて』『何のため』
それらを作ったのかという事を客観的に調べて、
より、客観的に考察する私的な一つの力であろう。

 評論を取り上げる媒体としてのメディアは、
どのようなメディアも『真っ白』ではない。
寧ろ、黒に近いグレーでしかない。
そこには必ず政治的、社会的、資本的メッセージが有り、
もう一つ下には、総てに金の流れが有り、下心が有る。

 即ち、”本意の伝達”と”任意の関係性”が存在すると言う事を
ラジカルに見抜くリアリズムが評論の眼力であり、
個人が主体的に生きるための学習でもある。

 評論すると言う事とは、
それらを見抜く事,その眼力を持つ事から生まれるべきである。
人やモノが持ち得た、”育ちのボキャブラリィー”に
具体的且つ、客観的に専門的に関わる事が
評論のための行程の始まり。
そこに独自な評論の眼差しと遊びこゝろが生まれるはずである。
自心の形態言語が生み出され、
そこが評論を行なう人間の立ち居場所である。

 評論する事の必然とは
オリジナリティ豊かな形態言語である。
他者のボキャブラリィーのコラージュだけではなく、
自心の文化から発する”言霊”を社会の為にぶつける事である。
 
 勿論、総ての行為に必然である論じる側の、
人間性が大本であることには普遍であろう。

 では、”モードを語るとは,モードを評論するとは?”の
具体的な展開は次回へ、

 台風のあとの蝉時雨のなかで。

文責/平川武治。
初稿/平成二十三年九月四日深夜。


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