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『追悼/僕が知っていた三宅一生。 雑誌「東京人」1996年4月、103号/ 「もうひとつの60年代。」 ーーー三宅一生、川久保玲、山本耀司の軌跡。』より抜粋。

以下の本文は、雑誌「東京人」’96年 103号掲載分、
特集「東京モードファイル」から、”三宅一生”の項目のみ抜粋しました。

執筆・文責/平川武治。
初稿出典/「東京人」1996年4月、103号:
特集「東京モードファイル」より。発行/財団法人東京都歴史文化財団。 編集人/粕谷一希氏。編集/都市出版株式会社「東京人」編集室。

 ”1960年代、それは政治の季節だった。
多くの学生は歴史の大きなうねりに身を任せるように、政治闘争へと参加していった。しかし、そんな時代に洋服に興味を抱き、自らの生き方を模索した者たちがいた。

”イマジネーションをドレスで表現したかった。
三宅一生の名前が最初にファッション雑誌に登場するのは、一九五九年の「装苑」である。この年は四月二十二日生まれの三宅が二十一歳の始まりとともに多摩美術大学の図案科へ入学した年でもあった。多摩美大企画広報課で調べたところ同期で活躍している一人に長沢秀俊(彫刻家)がいる。
 三宅は六三年の三月に卒業するまでの四年間に、「装苑」主催の、当時は服飾界の「直木賞」とまでその名をはせていた「装苑賞」に応募し続けた。そして、装苑賞候補作品として各々の号に写真入りで掲載され、各時代の先生デザイナーたちに選評されている。その作品数は十八点ほどもあった。
 六二年の「装苑」四月号における第十一回装苑賞で佳作賞に該当する「リズムミシン賞」を受賞した後、三宅はあれほどまでに執着していたこの賞をきっぱりとあきらめ、六〇年に出版された「ハイファッション」誌のピエール・カルダン賞の第一回、第二回の予選通過(九号、十号)のみで、事実上、文化服装学院が主催する各種コンテスト応募を絶った。 

 服飾専門学校へ行かなかった彼が、これほどまでに装苑賞にこだわり続けたのは、やはり当時からの「服好き」があり、その意欲と情熱と向上心が人一倍あったからだろう。この多摩美大図案科在籍時代から、彼はファッションデザイナーになることを決意していたとしか思えない。 
 四年間、応募し続け、ついに装苑賞をとれなかった理由には一つの共通項がある。候補作品の選評を改めて読むと、それが浮かび上がってくる。 
「新しい線に取り組んでみようとする意欲を認めて選に入れましたが、アイディアそのものが作者自身のものとしてこなせていないように思われます。(後略)」(選評、国方澄子、一九五九年七月号)「スケッチで選んだときはアイディアもおもしろく、線も生きていて他の応募者を引き離してよかったのですが、実物が出来てきたのを見て正直なところがっかりしました。(中略)シルエットも大切ですが、なによりも楽に着られるものでなければなりません。作者は、自分ではカッティングも縫製もしないそうですが、以上のような失敗はつまりはそのせいではないでしょうか。縫製技術をしっかりと身につけないと自分のデザインをうまく表現できないものなのです。デザイナーを志すからには、アイディアのみに頼らず深く洋裁を学んでいただきたいと思います。」(選評、宮内裕、”のちに、大内順子の夫となる。”一九六一年?月号) 

 三宅が多摩美術大学在学中の二年生のときに世界デザイン会議が開催された。当時としては日本で開催された初の世界規模のデザイン会議であった。ハーバート・バイヤー、ソール・バス、イタリアからはムナリも参加した。  この会議の前年には「日本デザイン学生連合会」という名の、東京芸大や女子美大などのデザイン系の大学生たちによる勉強会が誕生した。
 それに影響されたのだろう、三宅は五九年に「世界デザイン会議への提言」とした投書を行い、このデザイン会議に、なぜファッション部門が設けられていないのかを問う一文を発表した。そして、その一文がもとで、同じ装苑賞に応募していた学生たちとともに「青年服飾協会」を自らが発起人になり設立することになった。 
 メンバーは高田賢三、コシノジュンコ、松田光、金子功、箱守広、加藤正和、曽根美知恵、河村重(旧姓、佐々木)などを中心に組織されていた。
そのなかに、後に三宅がフリーランスデザイナーを務めることになるブランド”コパン”(株式会社一珠)の社長となった柳沢一もいた。
 この会社は当時の服飾界にある意味で新しい方向性をもたらすきっかけとはなったが、三宅は後に行われた会主催のコレクションには参加せずにその活動を終えた。 

 装苑賞と青年服飾協会を通じて三宅の学生時代を知る人たちのインタビューを合わせると、装苑賞応募では洋裁学校生が発想も及ばないアイディアを出し、紙とノリで張り合わせて立体を作り、後でハサミで切り取ってパターンを作る立体裁断を行っていたという。何でも自分の手でやってゆきたい行動力旺盛な人間だったようだ。 
 装苑賞応募と青年服飾協会設立は彼が在学中にデザイナーを目指そうと決めた意欲ある行動の表われであった。また、いつも人とは違う、何か新しいことを求めようとする青年へ成長し始めた結果でもあったろう。 

 卒業後の六三年五月三十日、二十五歳の三宅は、「モード、布と石の詩」展を帽子のデザイナー久本欽也(当時三十一歳)と和田隆という東京芸大工芸科出身で三愛のアクセサリーコーナーを担当していたアクセサリーデザイナーと三人で開催した。このショーは成功した。 

 「高校の時からファッションに興味を持ち。将来ファッションの世界で身を立てようと決心したという。多摩美術大学の図案科を今春卒業。フリーとして資生堂などのPR関係の仕事をしている。(中略)『みんなから三宅は着られない服だけを作っている、なんていわれますが、別にそういうわけではないです。着るという生活的条件を離れて、僕の持つイマジネーションをドレスという形式で表現したかったのです。いわば、造形です。ファッションにはならないでしょう。しかし、造形美としてのモードとして一つの試みを提唱したいのです。こういう中からでも着られる服が出てくるはずだし、たとえ着られなくても、イメージの展開としてのモード、それがファッションになんらかの影響を及ぼすかもしれない以上、けっして無価値だとは思いません。一人ぐらいはいてもいいのではないでしょうか。とくにPR関係のものなど、着るという制約を離れ、人間の動きの、ある一点を固定し、誇張した表現をとった方がより効果的だと思いますヨ』」
(出典/「装苑」一九六三年九月号、「ファッション芸術を提唱する三人組」)  

 とにかくこの”三人展”は、芸術性をめざす三宅を、以後の成功をもたらす方向へとプロパガンダし、彼の運命のコマを回転させていくことになる。
 当時、日本テレビの女性ディレクターだった鯨岡阿美子の眼にとまり、ライトパブリシティの村越譲、そして、ワコールへとつながり、やがて当時のファッションを志す人々のあこがれだった「パリ行き」へと拡大発展してゆくのだ。 
 もしかすると、三宅一生は世界のデザイン会議への五九年の投書がすべての発想の源流であり、以降の、「毎日ファッション大賞」「アスペン世界
デザイン会議特別参加」は、もうすでにこの時代、彼の「ありうべき姿」として決定していたのかもしれない。
 そこには、前出の「装苑」のインタビューとともに、現在の創造のための根源的なコンセプトがすでに、語りつくされているように思う。

(三宅一生の項のみ掲載。)
文責/平川武治。初稿出典/「東京人」1996年4月、103号。 
参考文献類/
「ファッション化社会」;浜野安宏著;ビジネス社;'71年刊   
「フラッシュバック」;Timothy Leary著;トレヴィル社:'95年刊    雑誌「装苑」;文化出版局編集発行:'51年〜'70年。
雑誌「Hi Fashion」;文化出版局編集発行:'60〜’70年。   
「ISSEI MIYAKE」;Tashen発行;木幡和枝訳:   
「一生たち」Issey Miyake & Miyake Design Studio'70-'85     
 編集;三宅デザイン事務所:旺文社発行。'85年刊。   
"Interview of The Times"/Asian Edition/27.Jan.'86:

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