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"The LEPLI" ARCHIVES-80/ 『ビーズインアフリカ展』の愉しさ、すばらしさとは、

これは、大阪の国立民族博物館の貯蔵品が“アフリカンビーズ”と言う括りで葉山へ来た展観。/「ビーズインアフリカ展」:神奈川県立近代美術館葉山 WWW.MOMA.PREF.KANAGAWA. についてです。

文責/平川武治:
初稿/2012年9月 5日:
 
 鎌倉は連夜の雷雨のさなか。
今、葉山の美術館で展観中の”アフリカのビーズ展”は
素晴らしいし、愉しいもの、一見の価値有りです。
この様な展覧会は日本で見る機会が少ないので愉しいですね。
今回の展観も日本ではこのカテゴリーを収集している公共施設が
数少ないのですが、大阪千里にある唯一の、国立民族博物館。
 ここはあの’70年大阪万博の出展展示物を根幹にその後、
この地に民族博物館が設立されたもの。
こからの借用企画の内容は残念ながら、その殆どが最近に製作された所謂、
”今もの”なのでそれを踏まえて楽しむことが出来れば面白いものです。

 従って、ビーズの世界の考古学的展観ではない。
テーマは、”アフリカにおけるビーズ工芸の世界”。
 アフリカ大陸に根ざして、今も現存している西、東、南と北そして、
中央アフリカの各々の民族が継承して来たシャーマニズムに由来する。
 多くは、冠婚葬祭時に時の権力者たちが、
自分たちの身分の違いを誇り、見れびらかし、富と位を保持するための
衣装と被り物とマスクとアクセサリーそれに布が少しという内容である。

 そういう意味では世界レベルで、”モードの世界”の発端と”根幹”は
黒人社会でも同レベルであり、
モードとは、”見世/魅せひらかす世界”であることには今も変わりがない。
だから見る方も解りやすく楽しめる。

 決して、その内容も大きな詰まった展覧会ではないが展示物がかわいい。チャーミングでユーモアが見事に調和を生み出している小規模ながら、
まとまったアフリカにおけるビーズ工芸の世界を垣間みるには
十分な、愉しい展覧会である。
 
 僕がこの手の展覧会が好きで、また西アフリカをヒッピィーし、
僕が彼らたちの世界に馴染む一番の原因は、
”プリミティフ””グッドバランス””ユーモア””メタモルフォゼ”
そして、”おおらかな人間性”に依って
”五感”を刺激し、好奇心とエネルギィーを与えてくれることに由来する。
 即ち、既に”文明国”と称されて文化を誇っている国の、
造られてしまった都合の良い環境に囲われて
都合良く生きている人間たちが失ったものが
これらを造ったアフリカの国々の自然と
彼らたちのこゝろと軀にはまだ染み付いているからだ。

 今回の展示物も、それぞれの会場からこれらが転がるように見る者の
こゝろと五感に触れる心地よい快感があった。
 それは自然に展示物の表情の後ろから、周りから
ドラムビートや投げつけるような言葉の転がりが聴こえるようであり、
灼熱の太陽の輝きと光線が痛く感じられ
静かなこの美術館空間で僕は一人、笑みをこぼす。

  展示物のすべてから、ルドフスキーの名著、『建築家なしの建築物』の世界観がこじんまりと展示されている。
僕がこゝろ奪われるのは、これらの展示物に作者が記名されていないこと。
 所謂、今はやりの誰でもがクリエーターである世界が
ここには存在し続けている。
 従って、展示物の見事な”バランス/調和”で造られた縞模様や、
色の配色や形態そのものは“Creations without design."のみの世界である。

 彼等たちはアントワープもセントマも出ていない、
CdGやYSLを知らない、
デザインを学んだことのない人々たちが
彼らたちの日常性の中から、彼らたちのデシプリンから
そして、何よりも自然との対話と共生きの環境と
それをリスペクトする宗教こゝろ。
 これら彼らたち日常の当たり前からその美しさが
自然と、“ともいき”するこゝろの有り様を行為しているだけである。
 彼らは自分たちのエゴを”自然”と持ち得た
”宗教こゝろ”に委ねての仕事でありすべて、彼らたちが造るオブジェは
それが動物であったり、昆虫であったり、鳥であったり、花であったり
水や雲の動きから五感を駆使して、
オブジェのフォルムや色彩と素材の使い方になり、
生み出すバランス/調和になっている。

 この世界はもう一方では日本では、”民芸”と称される世界があった。
が、この世界も物識り資産家たちの業としての美意識に結局は翻弄されて
自滅してしまった世界のようだ。
 しかし、最近はこの民芸の世界にも新たな若い人たちが
自心のこゝろの有り様を委ね、彼らたちのもの作りの下心薄い、
こゝろの有り様へ好奇心を持って近付き始めて来た。

 ここにも”芸術”というまやかしの言葉が届かないように祈ろう。
もう、既に今の時代の”芸術”という言葉は”まやかし”以外の何者でもない
現実逃避の消費財である社会性になっている。
 ”芸術”がこゝろを慰めた時代はもう終わったということである。
”芸術”はこゝろの欲望を消費させるオブジェでしかない。
従って、最近のファッションの世界とは、
この”欲望”がデザインされているモノだけが売れているのである。
 その舞台は広告産業という舞台であり、
巨大まやかし産業のサイバーワールドの手の上で。

 この『ビーズインアフリカ展』の世界は僕が提言している
”五感の新たなバランス化”を示唆してくれる。
 “臭覚”、”触覚”、“味覚”、“視覚”そして、”聴覚”と言う
”五感”の現代のテイクバランスとは?
今後の迎え得られる可能性についてです。

 それは文明がより進化すると言うことは、
科学技術と現在の時代性に委ねた現実の進化とは、
人間本来が持っているべき“五感”のアンバランス化へ進展するだけ
と言う見解。
 当然ですが、17世紀以来、西洋人たちが作り出した哲学を根幹として
生み出された彼等たちの価値観の元に人類が
そして、白人たちが他の動物に勝っているという”進化論”を根幹に、
以後、総ての基盤に“視覚”と”聴覚”をターゲットとし、絞り込みましたね。

 そこにこそ”文化あり”と言う世界価値観を創成し
この300年程が経過して来ました。
人間が”視覚”と”聴覚”それに“味覚”に委ねることが文化である様な
”人間優位主義”に立った文明哲学論が西洋社会で創成され、
その結果の環境が現在の僕たちが生活している環境社会。
 
 人間が本来持っているはずのそれぞれの”五感”のバランスに変化を生み、自然界、他の哺乳動物からの人間存在の絶対的優位性を構築して来た
ユダヤ教、キリスト教団、啓蒙思想、、、
 「先ず、光りありき、」の始まりからしてそうである。
特に,芸術を特化させ,その後、情報メディア産業や今では、
ファッション産業、生活産業に至るまでこの現代人間に
更なる“電脳box"が与えられ、持たされてしまった
”五感”のアン-バランス化がカッコいい世界であるかのように
大いなる勘違いをさせられて来てしまったことに,気が付いてください。
 これら彼等たちが生み出した文化価値がより、文明化することで
現在までの歴史の本流があります。
 他の感覚機能である”臭覚”と”触覚”が動物的だと言う狭軌で解り易い
キリスト教的な発想から文化の領域の王道は残って来なかったようです。
 
 これらは文化の領域に於いても異端であるとされ、
シャーマニズムやオカルト、呪術、フェチシズムやエロティズムの底深くに隠されてしまいました。

 と言うことで、もう一度、新たな時代へ向けての
人間が持ち得た”五感”のバランス化の必要性を感じ始めたのが
現代と言う時代性の根幹でしょう。
 これに気が付き始めた多くの人たちはやはり若い人たちですね。
例えば、少し以前から物質文明に危機感を感じ、
自然との関わりや精神文明への回帰の手順としての
”東洋哲学”即ち、『佛教』を
また、精神性を大切に”スピリチュアリズム”へ
動き始めた人たちが居ましたね。

 彼等たちに共通して感じることが、”五感のバランス化”を
無意識の内の自分たちの日常性へ具現化して来た人たちでしょう。
 彼等たちは“臭覚”と”触覚”を慈しむように
自分たちの身体感覚に取り戻そうと、そこに新たな安らぎが発見出来ると
言うまでのこゝろの有り様を再び、行為ヘ移し始めたのです。
 その兆しとして流行したのが”癒し”がありました。
カシミア、ファー、キャンドル、インセンス、パルファンなどの流行でも
理解出来ますし、
モードでも、もう既に、作り手の自我の造形化の時代は終わり、
今は着る人たちへの新たな”五感“に委ねた素材が持っている質感を
大事に「服化する工芸性」が一般的になっているのです。

 “視覚”と”聴覚”は変わらず、進化しつづけるでしょう。
しかし、それに追い付けとばかり、もう2つの感覚、”触覚”と”臭覚”が
新たな世界へ導くための可能性ある身体感覚の拡張になることを
今回は提言します。
 現在迄のファッションの世界も、これらの”視覚”と”聴覚”に
委ねたものがメインアイテムでしょう。
 ここに、新たな眼差しとして、”臭覚”と”触覚”を考えた
新しい日常生活衣服を考えられることも今後の可能性と愉しみ方の
一つかもしれませんね。

 僕はここで以前から言っている“CARE& CURE"と言うコンセプトが
ファッションの世界へもやって来る時代が、やっと来たようです。

 シャーマニズム、呪術、フェティシズム、ボンテージから、
現在のスピリチュアリズム、ヒーリングそして、僕が発言している、
“CARE & CURE"へ。
 今現在、巴里のケラブラリィー美術館で開催されている
”Maitres de Desordre展”や“J-P-WITKIN展”、
昨年のN.Y.での写真展”MASKE", 
ギリシャでの”NOT A TOY展”やカルチェ財団での展覧会、”呪術展”
古くは、シュバンクマイエル夫妻が提案した、“触覚主義/TACTICISM"
(U.C.の素晴らしい、コレクション“BUT BEAUTIFUL ’05"にも見られた)

 このカテゴリィーの美術館としては巴里のケラブラディ美術館は
その収集量と考察力と分類方法がとてもすばらしく、
珍しい’30年代のモノからいいモノをたくさん貯蔵している美術館です。
 建築もジャンヌーベル作です。
前庭の自然が時間とともに生きている風情を見せてくれるのもいい。
改築後は時代性にリンクし、タイムリーな展覧会を企画して多くの観客を集めている。

 「これからのデザインの役割としての、デザインの新しさとは、」 
 “シンプルな形態における工芸性”と僕は予知しています。
『複雑な形骸的な装飾性の強い工芸性から、
シンプルな形態の美しい工芸性へ。』
 そうです、嘗ての”デコ”や”流線型”なる工業デザインに近い復活を
読んでいます。
 これは現代と言う時代性が又、必要としはじめている
デザインの新しさです。
 この根拠は、あの”アールデコ”や”ストームライン”が生まれた時代背景を読むと理解出来ます。
 '25年の巴里万博で発表された”アールヌーボー”に代わっての
”アールデコ”はヴィエナの建築家、A.ローズが’11年に発表した
『装飾と罪悪』という論文によってヨオロッパで生まれ
以後、一つの新たな芸術運動へと進化した。
 そして、’29年には世界恐慌がアメリカを襲う。
これを工業で救うためにアメリカで為されたのが、
”ストームライン/流線型”の誕生であった。
 経済が不況になり、それを工業で救う。
そのために、デザインが役割を担った。
これが、”近代デザイン”の誕生だったのです。
 デザインによって、当時の工業生産を出来るだけ効率よく、
コストと手間をかけずに新しく見えるものに仕上げ生産すること。
 そのための、丸みのあるシェープ、
コールタールから再生された新素材、”プラスティック”の誕生も忘れてはいけない。
 新しい素材の誕生によってその素材をどのように使いこなすか?
ここにも、デザインの必須がある。
 以後、アメリカにおける”工業デザイン神話”が生まれ、グラフィックも、ファッションも含まれて、
”近代デザイン”というカテゴリーが登場した。

 実際、アメリカの産業は工業性が向上したことで大きく好転し始める。 先ず、ヨーロッパで芸術が生まれた。
それを量産するデザインという発想の世界はアメリカで生まれた。
このシステムがこの時代より始まり、
これは現在もこのスタンスは変わらなく
それぞれのユダヤ人たちが各々の持ち場を分担しているのが
現実でしかないことも変わらない事実である。

  この視点でこの展覧会をみると愉しく面白いです。
アート学校もデザイン学校も大学も出ていない彼らたちの感性の豊かさと
バランス感覚の良さは、何処から生まれるのか?
展示物の幾つかはとてもシンプルでしかも斬新で色の配色もいい
ビーズネックレスがあったり、ビーズベルトがあり、
ビーズで出来た男が婚礼用に着るというトップスもあり、
CdGのバランス観があったり、
フセインが好きそうで出すであろうスカートとの組み合わせがあったり、
加茂さんもびっくりのヘヤーハットの被り物がたくさん並べられ、
打ち込みフェルトに12枚の布とビーズが愉しい文様で並べられている
婚礼衣装があったり。
ビーズで出来た下着もある。
何しろ、見る眼を持っていけば面白く好奇心をそそってくれるのが、
この展覧会の楽しさであろう。
ここは僕が感じる次なる新しさの宝庫、
”シンプルで有機的な線”であり、
配色と選ばれた素材感が思いもよらない愉しさを出している
しかし、ビーズ工芸なのである。

 触覚を喚起する質感とシンプルなフォルム、次なる”工芸性”とは
手ずくりですよと、弄くり回した装飾過多のそれではないはずだ。
 ここでまた、’80年代のはじめの
レヴィーストロークの『野生の思考』が再考されますね。
 あの、僕がやっていた、季刊誌“ブリ-コラージュ”です。
今の社会性と環境性と時代性から“野生”を再考する視点。
近代の次が”超近代”とは限らないのが今。
近代の便宜性と快適性を享受した人間たちが次に求めるものは
気概を手に出来る”人間回帰”でしょう。

 どういうことかと言えば、
人間が持っている”五感”とその身体機能の”拡張”から、
サイバーな世界によってその拡張そのものがバーチャル化し始める。
 其処では身体機能の”移転”が為されそして、
今度はそのどちらもの世界、”拡張と移転”をほとんど同時に選別されこなすことが新たな気概へ通じる”人間回帰”。
 従って、嘗てのレヴィーストロークたちのロジックが
サイバー空間をも透過して、ブリコラージュされるだろう。
 即ち、人間の身体性を伴って、原始的なるものとサイバーなるものとを
つぎはぎ、繕い、ごまかす時代でしょう。
 ファッションの新しさの一つが
この”ブリコラージュ”のコンテキストによって生まれるだろう。
 例えば、”ビーズという皮膚”というコンテキスト。
ビーズという温もりを使っての”近代デザイン”等など、
http://ja.wikipedia.org/wiki/ブリコラージュ

 「いいえ。誰かの肖像画を描くということは、ある静止した状態の皮膚を捉える事を意味しています。
 もっとましな場合で、魂の外的現れを示す試みでも、おそらく、
観衆に向かって怒りを表すために、演じている舞台装置を引き裂く
俳優のようなものです。
 このゲームは私にとって感覚の逆転を意味しています。
劇の役は本来交代できるものではありませんが、感覚は可能です。」
 参照/シュバンクマイエル夫妻/'05の展覧会カタログより、
https://ja.wikipedia.org/wiki/ヤン・シュヴァンクマイエル

文責/平川武治:鎌倉晩夏に。
初稿/2012年9月 5日。

 

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