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35歳の自由研究「熱燗最強説」その2 バナナの木はどこだ??

例えば、僕がゴリラだとする。


例えば、僕がゴリラだとする。バナナが主食のゴリラだ。
りょうすけゴリラは森の中に住んでいる。


ある晴れた日、大好物のバナナを探す。

「あぁ、お腹すいたなぁ、、、、バナナ食いてえなぁ、、、。」

とふらふら歩いている(これは人間のりょうすけもよくやる)と、どこからか甘い香りが風に乗って流れてくる。

「あれ、この匂い、うまいバナナの匂いじゃね??」

とテンションがあがり、早足で風が吹いてくる方向に向かうと、やはりそこには黄色く実ったバナナが育っていた。

「うわぁ!!!!あったわ!!!!
でも、匂いだけじゃわからないからね。」

と食べてみる。

「やっぱそうやん!!これ、うまいやつやん!!!遠くまで歩いてきたかいあったわぁ。最高やわぁ!!来年のこの季節は、また来ようっと。」

りょうすけゴリラは、香りを頼りにうまいバナナを探す。「香り」だけで、目の前に見えないものを想像できるのだ。しかも、それが「うまいやつやん」とか「黄色いバナナ」とかそういう情報を持っている。それができるのは「香りと記憶」が連動しているからできているからだ。

しかし、りょうすけゴリラには時間の概念はない。今しかない。
だから、さっき書いたように「来年もまた来よう」とは思わない。それでも、来年もこの時期になったら、例えば気温や咲いている花を頼りに、この場所に来れる気がするのだ。

 おいしさや香りが、温度や景色や音楽とセットなのは、動物界のりょうすけゴリラがバナナの木にたどり着くために、つまり、動物が生きるために必要なことだからだと思う。それは人間だけの特別な能力ではない。

「探す」から「選ぶ」へ。

ゴリラから人間に戻ろう。人間のりょうすけは生活圏内に、バナナの木がない。そのかわり飲食店という名のバナナの木が、僕の住んでいる東京には過剰に存在している。

お腹が空いてバナナの木を探す、ゴリラのりょうすけとは違い、人間のりょうすけに必要な能力は、たくさんのバナナの木から「よりうまいバナナを探す」ことに変化した。「探す」というよりは、見つけた中から「選ぶ」という方がしっくりくるのかもしれない。

そして、その中から僕たちはどうやってバナナの木を選んでいるのか。

風が運んでくる香りを頼りにバナナを探していた、ゴリラのりょうすけとは違い、2018年の東京に住んでいる僕は、スマホを頼りに、文字と写真と映像、もしくは人づてに聞いた情報の中から「選ぶ」ことが圧倒的に多い。

「あの店、お前の好きな熟成系のバナナ置いてるから行ってみて。」
「あのバナナの木、星ついたらしいよ。」
「あのバナナの木、沖縄から移植したらしいよ」
「世界中のバナナ集める、フェスやるらしいよ」

風にのって流れてくる香りには頼らず、視覚と脳内イメージや人から聞いた情報を頼りに、飲食店という名のバナナの木を見つける。そこで僕は、甘い果実のかわりに、熱燗という名のバナナを手に入れるのだ。

お店に着いてから「めっちゃうまいやん!!」と判断するのは僕の嗅覚だが、そこまで辿りつく過程において嗅覚は使わない。

ただ、いい飲食店を探すのが得意な人は「お前、鼻が効くね」と例えで褒められたりはする。


りょうすけゴリラと人間りょうすけのバナナが与える価値の違い

香りを頼りにバナナを探すりょうすけゴリラと、2018年にバナナの木を探す、人間りょうすけの、大きな違いは何か。
それは先ほど書いたように、

・嗅覚先行型ではなく情報先行型の「バナナ探し」をしている。ということ。

もうひとつは、それが
・「生きるためのバナナ探しではない」ということだ。


 りょうすけゴリラにとって、バナナは生きるために必要なものであったが、人間のりょうすけにとって、バナナの代わりに探している熱燗は飲まなくても生きていけるものだ。
 
「生きるためにバナナを探す」ためではなく、どこそこに溢れているバナナの中から「めっっちゃおいしバナナはどれか」を判断するために、今の時代の僕は、嗅覚を使っている。
 今食べているバナナがおいしいかどうかにこだわるかどうかで、嗅覚の発達はだいぶ変わっていくと思う。生きるかどうかに必要ではないものは、気にしないと、どんどん退化していくはずだ。


 透明な水に、桃やオレンジの香りをつけて果実のジュースを開発する人のように、嗅覚を使って「食えてる」人たちが、ゴリラの世界とは全く違う形で、沢山いる。それでも、嗅覚を使う仕事をしていなかったり「別に食べれればなんでもいい」と思っていたり。「香り(香水なども含め)を楽しむ」「口のなかでおいしさを楽しむ」この2つに興味がないと、人生で嗅覚が活躍する場がどんどん減っていく。

もちろん料理人の本質も嗅覚(味覚も含めて)だとおもう。
鮨職人もいくとこまでいくと「あれ?このマグロ、イカから鯖に食べてるものが変わった??」マグロを食べてそんなことを感じられるようになるのだ(ちなみに僕はそれには気がつけない)。

 
 生きるためのバナナ探しではないからこそ、こういうことに気付いたり、分析しようと思えるくらいの余裕がある。そして、成分や産地の違いも楽しめるような情報も沢山ある。飲食店という名のバナナの木を探すことは、情報先行型のバナナ探しの時代に突入したからこその、人間ならではの遊びだ。

そして、伝えたいこと。


そして、嗅覚を使った人間ならではの遊びの中でも「熱燗と料理を組み合わせて楽しむ」ということは、もう超ヤバい遊びなのである。
 僕のゴリラ的な嗅覚は、ガッツが与えてくれた(バナナではなく)熱燗で、さらなる高みに連れて行ってもらった気がする。この楽しさを鮨を使い、感覚先行型の発信も、合わせて、できたらいいなと思っている。


 問題なのは、僕がここで伝えたいことは、「熱燗最強説」ということなのだけれど。脳内先行ではなく、嗅覚を使った、感覚先行型で「よく分からないけれど、うまいじゃん!!これ!!」ということで、ほんとうは伝えたいのだ。
 
 それなのに、こうやってブログを書くことは結局、脳内先行型のバナナ探しの真骨頂な訳で。感覚先行型で生きつつ、人間として知識の蓄積や情報処理の脳も使いつつで、いきたいなぁと思うのだけれど。
 そもそも情報先行型のバナナ探しの時代なので、風にのせて熱燗の香りを飛ばすことよりも、文字を書くほうが、興味を持ってもらえるとも思うのだ。


シンコがクリエイトするビートは
オマエの目の前のステレオを本来の姿に 
呼び戻すに違いないああ 
まったく同感だ しかし
何千万回
聞いたかも分からないループの谷間に
流れるせせらぎにはみんな気づくのだろうか
そう願いたいが
(by スチャダラパー B-BOY ブンガク)

 

とか思いながら。鮨を握っている、春の日。

貝と芽が美味しい季節。


参考文献:美味しさの脳科学人間は脳で食べている


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