定石は実は最悪の一手なのだということ

多くの人が知っている様に囲碁や将棋には定石がある。定石という言葉は仕事なんかでも使われている。日常的には常識やセオリーという言葉と同等な扱いだと思う。それらの言葉は多くの場合、あたかもその状況を解決する適切な選択肢として使われている。

確かに定石は手堅い。一般的にリスクを背負いにくい手になっており、選択肢としては悪くないように思える。なので定石を知る大概の人は定石的展開では流れ作業の様に定石を選択するのである。常識も定石と同じ様に使われている。誰からも同意を得やすく結果も失敗しないため、常識的方法はあたかもそれが最善であるかの様に選択される。

しかし、それは実は誤った判断なのである。

まず定石とは何かをもう一度考えてみよう。定石とは定番の展開であり、安定の選択の事である。wiki等には最善の手と書いてある。しかし、もし定石しか手を選択しない棋士がいたとしたら、その棋士はプロになることはできないだろう。なぜなら定石はプロにおいては誰もが押さえておくべき手だからだ。そうであれば定石に沿って打ち続けて行きつく先というのは基本的に見えており、一方にとってその展開をそのまま放置することが不利であることが判っていればそこから外れる必要があるのは自明である。

そうであれば不利な側はその定石を崩して別の展開に持ち込み、自分には理解できて相手には理解できない、つまり定石の通じない形に持ち込む必要があるということだ。プロというのはお互いに相手がそういう展開に持ち込もうとしていることを織り込み済みであり、そうなった時の為に有利に定石を展開しているにもかかわらず、より有利になる手を仕込める機会を常にうかがっているわけである。

つまりプロの世界において定石とはより良い手が無い時の、最悪の一手ということなのである。そして定石を定石だからと打つのはアマチュアであることの証であり、言うなれば二流であることを自称している様なものである。

もちろん定石を外した手が常に思惑通りに機能するわけではない。お互いにそういうレベルの思惑で手を探し合っているからだ。しかし、そういう選択をできる人のみがプロになるチャンスを得られ、定石ばかり打つ人はそのセレクションにすら参加することはできないのである。

常識やセオリーも同じである。良くこうするのが常識でしょ、という判断をする人がいるが(しかも口に出す)、果たしてその常識判断が影響するフィールドを全て押さえているとは限らないし、より良い選択というものが存在している可能性も多々ある。なので、本来的には、あまり良い手がないので常識判断で行きますか、というのが正しい使い方なのである。それもしないで何かが成功する可能性なんてかなりの強運が無いと起こらないことなのだ。

世の中で多くのプロダクトが平凡なのは殆どの人が常識やセオリーで判断するからである。セオリーに沿った判断は何か成功を約束している様に感じるが、実は失敗しないだけの選択であることを胸に刻んでおく必要がある。

もう一点注意点として挙げておきたいのは、世の中には常識を捨てようとか突飛な発想をしようというような言葉がよく出てくるが、常識は捨ててはいけないし、突飛な発想だったらいいわけでもない。

定石を知らずに打った手のほとんどは悪手であり、定石を打たなければならない場面で打った奇策も概ね悪手である。定石から外れるのも、奇策を打つのもそれが活きるタイミングで打つ必要があるのである。最悪の一手であると知りながら、定石を最後の手段とし、定石を超えた手であるかを判定するために、定石は常に学んでおくことをお勧めする次第である。