グリッドマンユニバースで憂鬱になった話

グリッドマンユニバースで鬱になってるのは俺くらいのものなので、この話をすることにした。

ネタバレもあるし、解釈のブレが酷いのでなんでもありな方しか読んではいけません。ご了承ください。





映画自体は大傑作だった。出来が酷すぎる映画を見るとその日一日が憂鬱になるけれど、そういう感情どころか、見終わるまで終始号泣した。鑑賞中は時折気持ち悪いニチャついたキモオタスマイルをマスクの下でしつつ、素晴らしい展開とアクションの数々に驚き、震えた。本当に素晴らしい作品だった。

がしかし、自分にとってその震えと感動が、激しいユウウツを引き起こしたのである。

最初に言っておくが、あくまでこれは個人的な話であって、作品そのものの評価では無い。自分は気持ちの悪いオタクらしく、自分の話を長々と、グリッドマンユニバースという定規を用いて話そうというそれだけなのである。

グリッドマンユニバースは端的に言うと、「前に進んだ僕たちが、もう一歩前に進む物語」だと思う。それは、電光超人グリッドマン続くシリーズにおけるひとつの到達点であり、結論であると言える。

グリッドマンシリーズは武史アカネ怪獣優生思想と、基本的にはとても内向的な悩みや問題を抱えた「助けて貰えなかった人達」であったり「どこか同情の余地がある悪役」が物語の根幹を構成していて、物語の結果的に、それらが救われる、もしくは彼らが成長する──といった流れで構成されている(と思う)。「死者に囚われた人たち」「失われたものに囚われた人たち」総じて、「過去の奴隷たち」かもがいて、前に進み、成長したり、救われたりする。

そして、その救いはただ突き放すのではない。そっと背中を押してくれるような。優しさに満ち溢れている。「いつの日も、電光超人グリッドマン」の歌詞通りなのだ。息苦しくて仕方がないこの日々の中、ほんの少しだけ歩き出す勇気をくれるような、そんな作品群なのである

それを踏まえた上で、グリッドマンユニバースはその先の話だった。前に進んだ主人公たちが、前に進ませてくれた「彼」を助けるために奮闘した。そグリッドマンという何時でもきみのそばにいるヒーロー。その概念を清濁反論批判点併せすべて肯定した。しかもそれが、2時間弱に収まっている。どう考えてもなにかがおかしい。時間を圧縮する怪獣がいるとしか思えない。少なくとも満足感で言えば1クールを一気見したくらいの感情になっていた。

だから、だから僕は憂鬱になる。言うなれば、僕は置いていかれてしまったのだ。僕はグリッドマンシリーズが好きだ。優しいからだ。何時でもそばにいてくれるような気がしたからだ。ヒーローなんてこの世に居ない。、助けてくれる都合の良い存在なんて、それこそ、過去にはいたけれど、もういないのだ。そんな僕に、そっと寄り添ってくれていたのだ。しかし、もうそういうお話ではなくなってしまった。僕はもう、恩を返さなければならないのだ。順番が来たのだ。

でも僕は、薄暗い部屋で、青白い光を浴びている。美少女の体を得て自らを(筆者はバ美肉おじさんである)偽りながら、日々を騙し騙し生きている。このままではダメなんだという焦燥感と、動かない体。過ぎていく時間の中で不摂生と駄肉だけが友達になっていく。心動かされて決心しても、ひと月もあれば元通りだ。

それでもただ、死にたくないという気持ちだけがあって、ズルズルと生き続ける。助けて欲しい人はもう僕のことを助けてはくれなくて、無機質の洪水の中で溺れている僕は、見えていた光の残像を見ながらもがいている。それでいて、本当は恵まれているくせに、不幸のふりがやめられない落伍者であって、こんなやつがどうして恩返しなどできようか。どこにも行けないことだけは確かで、だから、前へ進んでいる彼らを見て、思わず憂鬱になってしまうのだった。

僕は武史だし、アカネだし、怪獣優生思想だ。過去に囚われ、前に進めない。けれど、彼らはみんなもう、前に進んでいった。自分の足でふんばっているのだ。

いつになったら自分は前に進めるのだろう。そんなことを思いながら、今日も買ってきた安い弁当を食べる。良い作品を見たというのに、うっすらと募る希死念慮。その気持ちが起こることが、何より僕にとって憂鬱の原因になっている。

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