ウミムコー流刑囚

 2272年プサン王チェ・バンスはチョラド地方を占領し、四方に領土を広げた。ウミムコーでは当時古代末期の技術が復活しつつあり、人口が急激に増えていた。王はもはや国内では食わせられないような戦争捕虜や軽犯罪者など、余剰人口を減らすために彼らをヒロシマへと追放したのだった。当時キューシューよりさらに遠くにあるヒロシマは東の果てと見なされていた。

 入植は主に都市同盟の力が強い地域の周辺で行われ、最初は植民者と原住民の住む地区とはっきり分かれていた。またヒロシマ人とウミムコー人の婚約についても厳しく制限されていた。ヒロシマ人村と植民者村の間で起きた争いはシモノセキ市かオノミチ市の民会が調停するという決まりだった。
 流刑がどれほどの規模だったかはっきりしない。一年に数人単位で送られたという意見もあれば数十年に一度二千人規模の植民がやってきたとも言われている。いずれも官僚や技術者であり、彼らとの交流はそれまで未熟な農村しかなかったヒロシマに都市が生まれるきっかけとなった。

 数世代が経つと最初あった規定は形骸化し、両者の混血が進んだ。当時の戸籍や墓碑を読むと、親がニホン語の名でありながら子がウミムコー人の名前であるという現象が起こり、その逆の例も多い。
 こうしてその民族的境界が廃れた結果ヒロシマ人全体にウミムコー流刑囚の記憶が定着することとなった。やがてヒロシマ人がニホン各地に進出するに当たってこの歴史は喧伝された。

 2370年を最後に流刑は行われなくなり、2380年公式に移送が停止された。2384年プサン政権は崩壊した。