エコール・ド・シモン展201905

古き人は言いました。
「人生に迷ったときには人形と対座しなさい」と。
そういうわけでエコール・ド・シモン展へ行ってきました。

もう終わっちゃった展示の感想で大変恐縮なのですが、備忘録と大切な出会いの記録のためにしたためておきます。
次回の定期展に向けて、だれかが足を運ぶきっかけになれば幸いです。

開催情報

主催:人形教室エコール・ド・シモン(四谷シモン先生主宰)
http://www.simon-doll.jp/index.html
開催期間:2019/05/18~2019/05/26 18:00
開催場所:六本木ストライプスペース
http://striped-house.com/stripe-space.html

会場の模様は以下の動画に記録されているようです。
https://www.youtube.com/watch?v=BaI1kKaIpzU

感想

昨年に催された第37回展も観覧していました。『人形論』という分厚い本を購入した記憶があります。その際にDMをいただく登録をさせていただいたところ、自宅に届き、今年も見逃すことなく観覧することができたという次第です。

前回観覧した際には、心がくたびれすぎていたせいもあってか感想を書くまでに至りませんでした。人形教室の発表会という性質上、アマチュア~ハイアマチュアとでも位置付けるべき作家さんが多いからかもしれません。
しかし今年は、感じ入る人形がいくつもありました。以下にそれらを、拙い文章ではありますが紹介させていただきます。

御託を並べる前に、まとめ

人形は美しいので見てください。

これから数千文字、いろいろなことをごちゃごちゃ書きますが、結局言いたいことはそれに尽きるのです。人形展が近くで開催されていたら、ぜひ観覧してください。そしてどう感じたか教えてください。
じゃあ、↓を読まれる方は、僕の御託をいろいろと聞いてください。

追視という効果(素人目線)

人形体験の主要な位置を占めるものの中に、「追視」というものがあります。ざっくりいうと、「人形の瞳が観覧車を追いかける」という魔術めいたグラスアイの妙で、これにより観覧者の心象風景に、「まるで人形が生きているかのよう」な錯覚を与えることができます。
人形は絶対的な静物ですし、もちろん実際に人形の瞳が動いているわけではありません。しかし「視線」という意思の発露を疑似的に再現することによって、人形たちは静物という”向こう側”から、生物という”こちら側”へと一歩歩み寄ってくるのです。その幻想性に、人形体験における一つの粋があるといっても過言ではないでしょう。

幻想性という尺度

前置きが長くなりました。なぜこの話を書いたかというと、展覧会の会場で一つの気づきがあったからです。それは「追視しているけど気づかない人形」と、「明確に追視を生として意識させらえる人形」の二種類があったことです。
前者は、申し訳ないですが会場の七割近い人形がそう。ただそこに存在する、オブジェとしての存在に終始してしまっていて、幻想性を抱かせないものでした。これから語っていくのは、追視をはじめとして、ある種のメッセージ性を僕が感じ取ることのできた人形たちについてです。

Doll House Noar 追視の妙

初めにご紹介するのは、遠めに見ただけでそうとわかる特徴的な人形を作られるDoll House Noar様のお人形です。
モチーフとしては一貫した無垢な少女。病的に白い肌に薄い化粧を載せて、純白の寝具に身を包んだいつものスタイルです。しかし本日の人形はどこか不満気です。不満げな口元をして、上目遣いにこちらをにらみ上げています。

実は、会場で初めて追視を意識させられた人形が、こちらの人形でした。慌てて見返してみれば、ほかの人形も追視はしている。でもなぜこの人形だけが、こんなにも存在感を持っているのだろう。大きさが違うというのはもちろんのことです。それとは別に、「観覧者と視線を合わせること」が重要なのだと気が付かされました。

先述した通り、こちらの人形は、観覧者を「にらみ上げる」ように配置されています。この角度が重要で……つまり、「目が合う」のです。観覧者が最初に人形と対峙するだろう目の位置と、人形の視線とが、ちょうど交錯するようになっているのです。
目が合ってしまえば、人間は視線が気になる生き物ですから、その視線を意識せざるを得ません。結果として追視に気づく。すると人形は、それが抱く境界をいともたやすく打ち破り、単なるオブジェから、「ここでないどこかへ連れ出して」という不満を体現した作品へと変貌を遂げるのです。

アイライン、視点を意識して作品作りをするというのは、どの界隈でも言われることですが、人形をこうして観覧することで初めて、その意味するところのもっとも原始的な部分が腑に落ちたように思います。お人形もかわいらしかったし、まこと眼福でした。

会場の最奥、行き詰まりにNoarさんの人形がありました。そこから右に行くにつれ、怒涛の展開が待っています。

境界線 -幻の少女から、実在性への変貌-

その隣に展示されていた人形にもまた、息を呑みました。

佐藤久雄氏による、OLを模した人形です。何に息を呑んだかというと、それが極めて精巧に作られていたことです。
およそ人形……特にフィギュアやドールといった界隈から入った人間……が求める特徴とは、真逆の突き詰め方をしています。実在性をデフォルメしてメッセージに抽象化するのが僕の思い描く人形像でしたが、こちらの人形はそこら辺にいる銀行だか六本木族だかのOLを捕まえてスケールを縮めました、と言われても何らそん色ない造形の精緻さ。今にも動き出しそうなほどです。

ここには二つの文脈が読み取りえます。一つは、極限まで人形の造形をリアルに近づけることで、その存在を極限まで生に漸近させることによって、逆説的に人形が内包するコンテキストである死を際立たせること。
もう一つは、展示会としてのテーマの転換です。これまでの人形たちは、現実味を削ぐことによって抽象的なメッセージを表現する手法をとっていました(と思う)。しかしここからは違うというのが人形の主張です。
ここからの人形は、現実の射影なのだと。実際に次の人形たちを見れば、その文脈が裏付けられます。

妊婦たち -第二の倒錯、「懐胎」-

次の人形たちは3体の妊婦でした。これがまた面白い。三者三様の妊婦が、それぞれ別のメッセージを配信していました。松山智子氏、成嶋純子氏、斉藤修氏の三名になる妊婦像を、ひも解いてみましょう。

まず目に入るのが、松山智子氏の手になる、大変幻想的な人形です。白を基調としたボディは体それぞれの造形が極端に丸っこくデフォルメされ、まるで大小さまざまな満月によって体が構成されているかのようです。
その中でも特に大きく描かれているのが、腹部。妊婦像と表現したのは、この造形によります。体内に生命の存在を、強く感じさせます。おかしな話ですね。人形がその身に命を宿すということなど、ないというのに。

この倒錯は、人形の造形においてしばしば用いられます。人形体験の軸を担う錯覚のうち、”追視”に次ぐといえるかもしれません。すなわち、「懐胎」です。

腹部が大きく出た人形は、ひとつの順方向のカタルシスと、ひとつの倒錯からなる二つのコンテキストを持っています。

順方向のカタルシスというのは、”飢餓”です。飢餓状態の人間は腹だけが異様に膨れるというのは周知の事実ですが、そうしたゆっくりとした、しかし確実な死の足音は、人形という静の文脈に合致します。同時に、「まだ死んではいない」という時系列への期待を感じさせるものでもあり、倒錯的なモチーフでもあります。

一つの倒錯は、今回語るべき「懐胎」です。懐胎というモチーフがなぜ倒錯的なのか。それは人形が持つ「静止」あるいは「死」と呼んでも過言ではない基底を、「時間経過を予感させる期待」による時間的静止性の否定と、「生命の種子を抱く」というテーマからなる死の文脈の否定、以上の二つによってひっくり返すことの可能なモチーフだからです。

その文脈で改めて三体の妊婦像を眺めてみると、それぞれ「人形」という文脈から見て、否定したいコンテキストが決定的に異なることがわかります。ここから先は勝手な解釈なので、皆さまは皆さまで感じたままに動画をご覧ください。

松山智子氏の妊婦

松山智子氏の人形は、人間の形を極端にデフォルメした、真っ白なお人形でした。となれば、僕が感じた文脈は、「出産することの尊さ」を賛歌することです。なぜならば敢えて特定の個人を全く感じさせないように抽象化されているからです。ただ女性性と、妊産婦であるという特徴だけを残された人形には、生命への賛歌、命への歓待が溢れています。そんな風に感じました。

成嶋純子氏の妊婦

一方で成嶋純子氏の妊婦は、打って変わってかなり”人間”寄りの造形をしています。その姿は和人形風であり、おかっぱ頭に、左右あらぬ方向を向いている目が特徴的です。
現状に対する戸惑い、あるいはそれすらも放棄した諦観すら見て取れる作品です。先の人形が生命の誕生を寿ぐものであれば、僕にはどうも、この人形はその逆を行っているのではないかと思わされてしまいます。人形の造形に目を戻すと、和人形、その上髪も結っていない年端もいかない娘とくれば、かつて日本が中世から近世にかけて通ってきた、女性に対する軽視を想起したくなるものです。訳も分からず嫁がされ、男のなすがままに子を為さざるを得なかった、哀れな時代。そこに人形が持つ「時間の固定」という文脈を加えれば、そこには日本にいまだ根強く残る、女性に対する不当な扱いについての静かな怒りが感じられて仕方がないのです。

斉藤修氏の妊(娠する予定の)婦

そうして右へ右へと進んでいくと、大変セクシーな人形が目に入ります。黒のネグリジェにランジェリーを身にまとい、非常に濃い化粧をした人形です。黒い長髪は垂れるがままにされています。

いかにも”事前”という趣の一体。男性であるところの僕から見ると、二重の解体があります。ことに臨もうと、一歩踏み出した瞬間を切り出したという写真的な、その先の展開を予期させる躍動? のような感情が、体験として生まれます。それに加えて、人形の側にも、人形でありながら妊娠という生命の神秘を嘱望しているという不思議な倒錯が感じられるのです。

おわりに -ごちゃごちゃ考えなくても人形は美しい-

ほかのお人形たちもそれぞれ素晴らしいところはあったのですが、何分この記事を書くのに三日もかけてしまったもので、疲れ果ててしまいました。
なんかいろいろ御託を並べましたが、言いたいことは先に言った一つだけです。人形は美しいので見て下さい。

よろしくお願いします。



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