自分はどのように中二病と闘病したのか

 僕が中高時代を過ごした2000年代は、インターネット上で「中二病」という言葉が流行り始めていた頃だった。中二病は、思春期に特徴的な、過剰な自意識やそれに基づく痛々しい振る舞いを揶揄するインターネット上の俗語だ。医療機関を受診しなければならないような疾患とは異なるものの、在学当時、僕の症状は、深刻なステージにあった。

 自分は特別な存在のはずだ。どうにかしてそれを確かめたい。そんなことを考えていた中学2年の冬、格好のイベントがやってきた。生徒会役員の選挙だった。中高一貫男子校だった母校には当時、中高で1つの生徒会があって、高校生の生徒会長の下に、中高生1人ずつの副会長がいた。「お前、出てみろよ」。そうクラスメートにそそのかされ、勢いだけで立候補した。

 当時、僕の中二病は、主に歴史上の人物に自分自身を重ねて陶酔する形で進行していた。NHKのドキュメンタリー番組「映像の世紀」がちょうど再放送されていた時期で、あろうことか独裁者の演説やカリスマ性に憧れ、「体育館の演説会で同じことをやろう」と思い立ったのだった。

 とは言っても、経験もなく何もかも未熟な中学2年生が言えることなど、限られている。
 「どうしてこの学校には女の子がいないのか!男子校だからだ」
 (※笑いが起きる)
 「当選したあかつきには、文化祭に女の子を呼ぼうじゃないか!」
 (※大喝采が起きる)
思春期の男子しかいない演説会は熱狂に包まれて、圧倒的な票数で当選した。さっそく就任後、顧問の先生に申し入れた。「女子校に出向いてチラシを配りましょう」。もちろん、秒速で却下された。今考えれば当たり前だ。だけど、当時の僕は焦っていた。「映像の世紀」で、独裁者が失脚し、暴徒に吊るしあげられるシーンを見ていたからだ。

 結局、任期中に公約を果たせなかったものの、吊るしあげられずには済んだ。男子校には、僕のようなくだらない人間を、面白がって受け入れてくれる校風があったからだ。

「面白そうだから、そのノリで来年、生徒会長やっちゃえよ」
 周囲の仲間に担がれる形で、本来は高校2年生が務める生徒会長のポストを、高校1年から2年間務めた。生徒会長になると、他校の生徒会との意見交換会に参加するようになり、知り合った他校の生徒会役員にお願いして、文化祭のポスターを貼ってもらったり、友人を連れてきてもらったりと、草の根で努力するようにもなった。

 気づくと、文化祭というイベントに、どうしたら人が集まってくれるか、どうすれば母校にもっと魅力を感じてもらえるか、そもそも魅力とは何なのか、真剣に考えている自分がいた。学校の生徒代表を務めたことで、次第に自己と他者を相対的に見つめられるようになったのだと思う。いつしか、僕の「中二病」は治癒していたのだった。

 中二病は、平等に思春期の若者に訪れる。ある日突然、邦楽を否定して洋楽を聴き始める。毎朝、学校の鏡でワックスで髪を固める(夕方にはベトベトになっている)。部活をさぼり、スタバやマクドナルドにたむろする。ゲームセンターやカラオケで不毛な時間を過ごす。中古書店でひたすらマンガを立ち読みをする。どれも正しい時間の使い方だったかは分からないが、無駄ではなかったのだと思う。黒歴史と言えばそれまでだが、中二病を経なければ、今の自分に至らなかったと思うのだ。

 卒業して十余年。新聞記者を経て、広告業界で働いている。どうすれば商品に魅力を感じてもらえるか、模索する日が続いてる。その原点に、中二病を発端に生徒会に入り、トライアル・アンド・エラーを繰り返していたあの自分が、いる気がしてならない。

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