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芸術を仕事に糧にする

先日ヒラリー・ハーンのコンサートに行ってきて、大いに刺激を受けた。そのとき自分が広く芸術というものをなぜ必要とするのかについて考えたので、メモしておく。

* ヒラリー・ハーンはドイツ系アメリカ人のバイオリニストで、クラシック界におけるバイオリニストとしては現役最高峰である(僕は世界一だと思っている)。97年、18歳のときに「バッハ:無伴奏ソナタ・パルティータ集」という王道中の王道(難曲中の難曲)でCDデビューした時は、その若さに似合わなぬ円熟っぷりで世界を感嘆させた。

1. 常に価値観を更新する。自分の常識の外にあるものを取り入れる。

僕は音楽以外にも現代アートが好きなのだが、なぜ好きかと聞かれたら"自分の価値観を更新するような刺激を受けられるから"と応える。

ビジネスマンであろうとクリエイターであろうと、自分の周囲が当たり前のことでいっぱいになり、自分の常識の外のものに触れなくなることは危険である。アートはその常識を想定外の角度から打ち破ってくれる。見えていると思っていたものが実は見えていないことに気づかせてくれる。米田知子さんの写真は優れたタイトルと相俟って美しい風景の中に忘れられた歴史の傷跡を思い起こさせる。JRの作品は存在すると思っていた差異が曖昧であることや、同じであると思っていたことの多様性を鮮やかに浮き彫りにする。

毎日続く仕事をしていると、いろんなことが当たり前に見えるようになり、ルーティン化・硬直化していく。そうしていつの間にか迫っている危機や環境変化を見逃す。海外の知らない街を歩くのもそうだが、アートを通じて自分の”世界の見え方”を揺さぶることは、心の瞬発力を維持する上でとても大事である。


2. 先人の遺産を背負って文化を継承するアーティスト達のプロフェッショナルな仕事ぶりに自分の襟を正す。

先日のヒラリー・ハーンのコンサートで感じたのは、今のクラシック音楽が宮廷と教会から大衆へとオーディエンスに変えてから約200年の歴史を継承する者として、文化をつないでいくという責任感だ。

コンサートプログラムは十八番のモーツァルトとバッハをメインとしている(それはオーディエンスが期待しているものでもある)。しかし、後半はほとんど誰も聞いたことがないような(唯一コープランドというアメリカの作曲家の名前くらいは知っていたが、僕みたいにクラシックオタクみたいな奴以外は知らないだろう)現代音楽の作曲家でがっつりとプログラムを組んでいた。

率直に言って、それらの曲はハーンという当代随一の演奏家の魅力を引き出すには器として力不足だった。しかし、ハーンは集客力随一の演奏家の責任としてやっているのだと思われる。そうでもしない限り現代作曲家が作品を聴衆の前で発表することは困難であり、それは未来へと西洋音楽の歴史を繋いでいくことを困難にするからだ。アンコールまで徹底してよくわからない現代音楽を紹介し続けるハーンはとても頼もしく見えた。

バッハやイザイの無伴奏曲やメンデルスゾーンの協奏曲だけを演奏している方が観客も喜ぶし集客も楽なのだろうが、(率直に言って誰も期待していない)現代音楽を半分紹介するという責任を自ら課す、文化の継承者としてのハーンをプロフェッショナルとして尊敬せずにはいられない。それは世襲により選択の余地なく芸を継承する歌舞伎役者などにも共通するが、背負っているものの重さが違う者の仕事ぶりにはいつもはっとさせられる。僕みたいなサラリーマンはそういうものがないので、自らそういうプレッシャーを課していかないといけないと思う。

というようなややこしいことを考えながら僕は芸術鑑賞しています。

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