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「初めての開催、そして2000万円以上の赤字に」 のその後 vol.2

初開催から3年目の2008年までのお話は以下の前回の記事にまとめてきましたが、その後2009年からの調子乗り期に関して書いていこうと思います。

遂に自分の開催するフェスティバルにSquarepusherが!!とにかく嬉しくって、当日のライブが始まった瞬間には鳥肌が立ったのを今でも覚えています。

では、実際の歩みについて振り返っていきましょう。

新しいメンバーの参加

2008年は何とか僕とM氏の2人体制で乗り切りましたが、規模も大きくなり新しいチャレンジをする予定でもあったので、メンバーを探していたところでした。そのタイミングで、旧知の仲で頼もしい友人であったO氏がイギリスから帰国するとの話を聞き、オファーをし正式にチームに参加してもらうことになりました。フェスティバルとしての知名度が少しずつ上がっていくプロセスで、足元をしっかり固める段階にあったため本当に心強い出来事となりました。しかし、僕らは調子に乗り少しフェスティバルを甘く考えてしまうのです。

年二回開催の難しさ

あまり知られていないのですが、2009年、2010年、2011年は年二回TAICOCLUBを開催していました。

2009年はこだまの森と神奈川県川崎市の東扇島東公園。TAICOCLUB KAWASAKIとして、今ではBAYCAMP等が開催されている公園での開催。そして、2010年、2011年はこだまの森と新潟県中魚沼郡津南町のニューグリーンピア津南。こちらはTAICOCLUB Campsとして。

2008年の開催終了後2009年の準備を進めていく中、もっと近くで開催すればもっと人が来るのではないかと安易に考えてしまったのです。

”フェスティバル = 音楽”


当時の来場者の7割近くは関東からの来場者だったため、このボリュームゾーンを強化して、良い音楽を提供できればそれだけで人はもっと集まると過信していました。というか調子乗ってました。。。

しかし、いざ開催してみると川崎での開催では以下の要素への対応が全然足りていませんでした。

- フェスティバルの知名度

- こだまの森での開催からの間隔
- 他のフェスティバルとの日程調整
- 周知期間
- ラインナップの差別化
- 環境対策
- おまけ

6月のこだまの森での開催から3ヶ月しか間がなく、とても万全の準備ができていたとは言い難い中での開催となりました。さらに川崎は初めての開催場所でもあったため、想定外の事態も多くとても困難な状況を招く結果となりました。

TAICOCLUB KAWASAKIでの失敗

遠い過去すぎて難しいのですが、具体的に何がうまくいかなかったのかを振り返ってみます。

【フェスティバルの知名度
2009年のこだまの森での開催は2008年を超えて過去最高の動員となりました。そのおかげで、TAICOCLUBは有名になった!と勘違いをしてしまうわけです。あくまで6月一週目の指定席をようやく掴み取ったばかりなのに。つまり、キャンプ+フェスティバルとして認知されてきた段階にしかすぎませんでした。

こだまの森での開催からの間隔2009年6月6日、7日にこだまの森での開催をし、同 9月19日、20日に東扇島東公園での開催と3ヶ月強しか間隔が空いていない状況になりました。なぜこの短い期間だと難しいのかは以下の項目で追ってみます。

周知期間
開催発表自体も5月30日とかなり遅くなってしまいました。大きな理由としては6月開催の来場者に影響が出るかもしれないとの懸念です。前述のように関東からの来場者が7割近いので、関東近郊でやってしまったらこだまの森まで来てくれないのではないか?と考えていました。こだまの森での開催と東扇島公園での開催では”楽しみ方”が明確に違う事に気付いていれば、早くから周知/広報が可能だったはずです。

他のフェスティバルとの日程調整】
良い音楽が楽しめるフェスティバルであれば人が来ると信じていたのですが、実際にTAICOCLUBがカテゴリー分けされるであろうジャンルのオーディエンスは一般的に考えるとそう多くはありません。そんな中、開催2週間前の2009年9月5日、6日にはMETAMORPHOSE 09が開催されています。その当時のラインナップを見ても素晴らしいです!!!このすぐ後に開催するのはかなりハードルが高いですね。。。

ラインナップの差別化
こうなるとラインナップの差別化も大変です。6月のTAICOCLUB自身に加え、METAMORPHOSEとも距離を取りながら良いバランスを探していく必要が出て来ます。とは言え様々な試みはできたのではないかなと思います。
Múmに加えアルバム「eyja」で縁のあった原田知世さんも出演し、monolakeは4chのサラウンドライブを披露。川崎の工場地帯をバックにDJ NOBU、Omar-S、Carl Craig、Theo Parrishという怒涛のステージもありました。しかし、川崎ならではという圧倒的なラインナップの実現は難しかったというのが実感です。

【環境対策】
会場は海沿いにあり想像以上に風が強い状況になりました。9月にも関わらず強風で体感温度が極端に寒く、厳しい条件でした。その一旦を担っていたのが”台風”でした。ギリギリまで上陸するかどうかで、もう精神的に辛かったのを覚えています。上陸したら開催をキャンセルしなくてはならないなと。野外フェスティバルの一番の敵は何よりも気象条件なのです。こればっかりは祈るしかなく本当に気が休まらないです。

この風、何が問題だったかと言えばもちろんステージやテントなどが飛ばされる心配も多分にありましたが、来場した方がゆっくり休む事ができる場所が無い事です。キャンプの時とは違って軽装、身軽の方が多くなるのでオールナイトで本当に大変だったと思います。風を避けるスペースも、ゆっくり寝転ぶ場所も無かったので。この経験が次回来たいか来たく無いかの判断材料となるので、次回は難しいなとこの時点で感じていました。

【おまけ】
この場所で大規模なイベントの開催、またオールナイトでのイベントも初めてという事もあったため最後は職員の方に場内のスピーカーで強制的に音止めのアナウンスがあったり、朝方に暴〇〇の怖い方々が訪れて来て”ここで勝手に何やってんだ!!”と連れまわされたりもしましたが良い思い出です。

結果として

想定していた来場者数を達成できず(来場者数だけが指標では無いのですが)、2008年、2009年6月で積み上げた利益をあっという間に全てふっ飛ばしてしまいましたが、個人的にはとても思い出深いフェスティバルになりました。

次回は新たな試みとなった2010年、2011年を振り返ります。

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