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「教養」の話

謙遜とかそういうものでは全くなく
私には「教養」がないと思う
そしてそれが嫌だ

「無知の恥」の話の冒頭で書いたように、まだそれを自覚しているだけ幾分かマシだとは思うが
かといって教養がないという事実には変わりはないわけである。

教養がないからといって別に死ぬわけではない
それほど気にしなくてもいいのかもしれない
しかし私は「教養のある人」になりたい

「教養」を調べてみると
「学問・知識を(一定の文化理想のもとに)しっかり身につけることによって養われる、心の豊かさ。」
と出てきた

そう
「教養のある人」は言い換えれば「心が豊かな人」でもあるのだ
そういう人に私はなりたいのだ

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人間は言語で思考する。言葉の数だけ思考があり、また感情も言葉の数だけある。
例えばきれいな女性を見た時に「綺麗」という言葉しか知らなければ、そうとしか言えないし、またそうとしか思えない。
しかし「艷やか」「艶めかしい」「素敵」「美しい」「可愛い」など言葉を知っていれば、言葉の数だけその女性の印象を詳細に伝えたり、感じることができる。

「言葉」という知識をしっかりと蓄える事ができた人は「教養のある人」になれるだろう。

何か一つでも「専門分野」として極めることができればその人は「教養のある人」になれる。

話を私に戻す。
私には「専門分野」というものがない。
一番好きなものは何かと聞かれれば「音楽」ではあるのだが
好きになったミュージシャンの音楽しか聴いてこなかったから、ある種の「学問」としての音楽は詳しくない。
この間なんかベン·E·キングとB·B·キングを間違えた。
音楽好きからしたら打首獄門にされてもおかしくないレベルだ。

ではそれ以外はどうだろう。
本、映画、楽器、皮革、鉱石、紙、写真、デジタル機器等
興味がある分野はあるが
どれも「知識をしっかりと身につける」ことは出来ていない。

訳あって仕事を休みがちになったり、本格的に休むことになったりしてから
興味のある分野の知識を少しでも蓄えようと本を読んだり映画を観たりしようとしたのだけれど
正直ほとんど蓄えられてない。

まず生きるのに必死でそれどころではなかった。
死のうとしたり、救急車で運ばれたりしたし
いざ本を読もうとしても全く頭に入らない。
病気のせいなのか薬の副作用なのか、文字を認識することはできても一連の文章としてそれを認識できない。
認識すらできないのだから勿論頭に入らない。

また厄介なことに頭の中にあるはずの記憶も思い出せなくなった。
仕事の直属の先輩の名前が出てこなくなったときは軽くパニックになった。

なんだか言い訳がましくなってしまったがそんな感じでここまで来てしまった。
最近は理解に少し時間はかかるが文章は認識できるようになったし、書くこともできるようになった。
記憶はまだちょっと怪しいが
やっと今スタートラインに立ったような気分だ。

遅いのだけれど……

今からまた知識を蓄えていきたい。

ただまだ自分の専門分野がなく、興味の対象ばかりが広い私の「教養」とはなんなのか
が定まっていない

何か一つを極めようにも、知りたいことが多すぎる。

広く浅い知識でも
広すぎればそれも「教養」になるのだろうか。
やはりそれぞれをしっかり修めていかねばならないのだろうか。

そう考えながら今日も今日とて終わりを告げる。
日が過ぎるのが早すぎる。

一休さんの句でこんなのがある
この句しか覚えていないのだが

有漏路より無漏路へ帰る一休み 雨降らば降れ 風吹かば吹け

一休さんの事を知りたくなってきた。
時間はいくらあっても足りない。

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