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第八話 「父とお酒を」

帰りの新幹線に、私は一人でいた。新神戸の駅で雄太とは別れた。雄太は改札で、私に握手を差し出し、私が添えるだけの握手で返すと、なぜかハグしようとしてきたので、やんわりと逃げた。いつまでも手を振る雄太をあとにして、私は、エスカレーターを駆け上がった。
 今、私の手元には、一本の日本酒がある。あの幸男さんに出してもらった、古い『神童』である。木の香りのする、あの酒だ。一升瓶をリュックに突っ込んで、持ち帰ろうしたが、その重さでグラつき、リュックから落ちたりしないか心配で、私は仕方なく、赤子を抱えるようにして、『神童』を大事に抱え、持ち帰っているのである。

「幸い、命に別状はありませんでしたが、昌平の舌は、それからすっかりおかしくなってしまいました。私は、その責任から、すっかり酒の匂いなど嗅ぎたくはないと、あれだけ憧れていた蔵を継ごうとはせず、上京して、酒とは無縁の仕事をしておりましたが、あの思い出の蔵を簡単に潰すわけにはいかず、気が付けば、神戸へ帰ってきてしまいました。その頃になっても、蔵で人気の酒といえば、『神童』だったのです。その業績をたたえ、私たちは今も、昌平を酒の神様として崇めているのです」

幸男さんは、それから、私たちが帰る頃に、また、言葉をうまく喋ることもできなくなり、ボケた。私たちを前にして、昔を思い出し、覚醒していたのだろうか。帰っていく私たちをみて
「昌ちゃん!、また遊ぼう!」
と叫んだ。

家に着くころには、すっかり夜だった。
「ただいまー」
と帰ってきた私に返事はなかった。その代わりに聞こえてきたのは、父の大きな鼾であった。
居間の戸を開けると、そこで、掘り炬燵に足を突っ込みながら、眠っている父がいた。これが、あの昌平だろうか。見る影もない。テーブルの上には、食べかけのソフトサラダと、ほうじ茶がある。私は、抱えていた『神童』を父の前にドンと置いた。その音で、父が目をさました。
「ただいま」
と私は父に言った。
「おう」
とだけ、寝起きの父が答えた。
そして、目の前の、ラベルのない一升瓶を見て、顔をしかめた。
「・・・」
「一緒に飲まない?」
「?」
「たまにはいいでしょ」
「おお」
とだけ、父は言った。
私は上着を脱ぐと、リュックをおろした。そして、台所へ行き、いつものように、コップ一杯の水を飲もうとして、やめた。不思議と心は穏やかだった。

台所の食器棚から引っ張り出してきた、安いガラスのコップが二つ。もう底の方が軽く変色してしまっているような代物だ。そのコップに、トクトクと日本酒を注ぐ。本当に、透明な水のような酒だ。その酒が、家の電球に照らされて、七色に光っている。
「どれ」
といって、今度は、父が私の分も注ぐ。
居間の窓から、庭の一角が見える。ふと気づくと、そこに、白い雪が、ちらついているのが見えた。
「あ」
と思わず、私は声をあげた。
それを見て、父が振り返った。
「お」
父が嬉しそうに言った。
「いいね」
私も父に合わせる。
「じゃ、乾杯」
と父が言うと、安物のコップがカチンとぶつかる音がした。
父が、酒を飲んだ。一口飲むと、ふと顔をしかめ、私を見た。
私は、父をじっと見ていた。そして、父の表情の動きを、くまなく観察していた。
父が、ボソッと、一言だけ呟いた。
「・・・3号」
一瞬だけ、真顔になった父が、フッといつもの父に戻る。
「いや・・」
そして、父は、無言で酒を飲んだ。私は何も言わなかった。
窓からふる雪をみながら、私は父と二人、酒を飲んだ。
おそらく、人生で初めてのことだと思う。

一つ気になることがあった。あのサイトのことである。あの都市伝説のようなサイトでは、その後、父は渡米、と書いてあった。馬鹿げた冗談かと思っていたが、帰り際に、貞治さんが言った一言が、私の心をざわつかせた。
「ちなみに、お父さまは、今、お元気ですか?」
「ええ。家で毎日、寝てばっかりいます」
「そうですか、それはよかった、てっきり私たちは、日本にはいらっしゃらないかと」
「え?」
「お父様はたしか、だいぶ長い間、アメリカで生活していたはず」
「・・・ちょっと、知らないです」
「当時、日本酒を世界に広めようとた、国の一団がありました、城戸酒造の噂を聞きつけた一団が、昌平を連れていったのです。たしか、その船が、座礁してしまったのは、ご存じですか?」
「へ?」
雄太が、私を見た。私は、何も知らない。
「もしかして、ご存知ない?」
私は、ポカンとして、首を縦に振った。
「有名な話です、たしか新聞にも載りました」

父が寝静まると、私は、再び、家のパソコンの前に座った。そして、いつかみた例のサイトを開いた。

『沖田昌平の数奇な運命』

相変わらず、馬鹿げたタイトルのサイトだ。一体、誰が作っているのか。ページを下に進めると、ふと、前見た時にはなかったリンクがあるのに気づいた。
「?」
私は、思わず、そのアンダーバーのある箇所をクリックしてみた。

『その後、沖田昌平は、日本で最初の全米ボクシングチャンピオンになるが、アメリカ側がそれを隠蔽。そして、失意のうちに養蜂家となり、日本に現在の養蜂技術を持ち帰った男』

馬鹿げている!。誰かが私の父の名を知らずに使い、ふざけているのだろうか。私は、気味が悪くなり、サイトを閉じた。父がアメリカにいたなんてことは、この年になるまで聞いたことがない。第一、父は英語を話せない。そして、そもそもボクシングなんて、あの穏やかな父からは想像もできないし、養蜂なんて。・・・と思った瞬間、ふと、あの毎朝の父のラベルのない蜂蜜を思い出した。フラッシュバックする、父のあの、蜂蜜の不気味な味わい方・・・。あの、ラベルのない瓶。あれは一体・・・。私はたまらず、ベッドに横になった。旅の疲れがたまっていたのか、あっという間に睡魔に襲われ、気が付けば、私は、長いこと眠っていた。10時間以上も寝ただろうか。起きた時には、すでに、昼であった。

今日、私には、やることがあった。
図書館に行くのだ。
それも、できるだけ大きな図書館。

「有名な話です、たしか新聞にも載りました」

貞治さんの言葉が脳裏をかすめた。当時の新聞を調べるのだ。

軽い昼食をとると、父はすでにでかけているらしく、家の中は、しんと静まり返っていた。ひとまず、この結果を、飛猿さんに報告しなくてはいけなかったが、食べた後で、腰が上がらず、なんだか不意に眠気が私を襲った。私は、掘り炬燵に足を突っ込んだまま、いつもの体勢で、天井を見上げていた。近頃の私の体調は、めっきり良くなっているような気がする。こうして、どこかへ出かけようなんてことは、以前は思わなかった。家にいて、ゲームばかりしていた。彼氏もいなかったし、そういう人を作れるとも思えなかった。私は今、停滞していた。が、父について考えると、まるで、ゲームのような、謎解きのような気持ちがして、面白かった。

いつものところに、いつもの染みがあった。私はそれをじっと見つめていた。父は一体どうして、この事実を私に内緒にしたのだろうか。そして、本当の父は一体、何者なのか。あのサイトのことも気になる。そんなことを考えながら、天井の染みを見上げている私の頬に、ほんの一滴、水よりも粘着性のある何かが、ポタリと落ちた。私は驚き、思わず、「うわ」と声を上げた。そして、顔についた何かをぬぐった。ふと、甘い匂いがした。

雨漏りかと思われたそれは、よく見ると、黄色く光っている。

手についたその滴を、私は舐めた。そして、私は、強張ったような顔で、天井のシミを睨んだ。

あれは、シミではない。

蜂蜜だ。

我が家の天井から、蜂蜜が漏れている。

なぜだろうか。
私は、もう一度、確かめるべく、大きく口を開け、そのシミの下で待った。

しばらくすると、今度は、私の口の中へ落ちた。

甘かった。

間違いない。これは、父の蜂蜜だ。





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